宗教感話

1994.10

生きて働く言葉の力

松居 直
(福音館書店会長)

私たちの日常の生活から、言葉が消え、失われていくのを感じます。かつては生活に根づいていた、“お隣さん”や“ご近所”といった感覚も、言葉と共になくなりました。そして互いに知らぬふりをし、無関心を装い、他人を無視しようとするようになりました。
人間関係が煩わしいと感じるこのような気持ちは、どこからどうしてもたらされるのでしょう。こうした人と人との関係からは、当然、言葉が消えていきます。言葉が失われた所に芽生えるのは暴力です。

いまは家庭からも言葉が失われていきます。家族の間からも、互いを支え合う言葉や子どもを包みこむ言葉が消えていきます。その一方で、情報と化した言葉、知識に化けた言葉が氾濫しています。子どもたちの頭の中も、そうした寄せ集めの冷たい無機質な言葉でいっぱいです。それを詰め込む手段や方法ばかりが工夫されます。知識で頭がいっぱいの子どもを見ると、心はどうなっているのか、と思います。心に響く、生きて働く、心が通い合う言葉が語られぬ環境に成長する子どもたちの未来に、「信仰と希望と愛」があるだろうかとても不安になります。

言葉が失われることは、人が人でなくなることです。人が人として育たなくなることです。人が生きていく根が断ち切られることです。人と人との絆や交わりが失われ、心が通い合わなくなれば、人はばらばらになり、孤立し、そして争い合うでしょう。家庭も失われます。神と人との交わりはどうなるのでしょう。

言葉は触れることも把むこともできません。言葉は眼にも見えませんから、失われていくことにも気づきません。こうして精神が崩壊していくのにも気づかずにいるのが、現代の私たちの姿です。そしてその結果は、様々な社会現象として現れています。いじめも不登校も、そうした大人の病理の反映だと思います。言葉が消えた家庭で育った人々は、言葉の力を失い、結婚しても家庭が作れない、子どもを産んでも親になれない、どう子どもを育てればよいのかわからない、という不安と苛立ちの中で、夫婦として共に生きる目標を見失い、親子共々苦悩に打ちひしがれていきます。

私たちは乳飲み子のとき、母親や父親の腕に支えられ、胸に抱かれ、愛情と喜びいっぱいの暖かい言葉に包まれ、言葉に抱かれて育ったのです。このとき乳飲み子は、絶対的に支えてくれる人の存在を、全身全霊で感じたはずです。そして自分のすべてを委ねる中で、安心感と安らぎと慰めとに満たされたのです。“共に居る”喜びを深く深く体験しました。この体験が家族の根です。そしてこれが信仰への原体験だったと思います。“親”が神から託された有り様でした。

犬養道子さんの『聖書のことば』(新潮社刊)の第三部「みことばと息吹き」という章の始めに、幼い頃の病院での手術の体験を記した文章があります。手術を初めて受ける恐怖に震えている自分を、白衣をまとって付き添う決意をしたお母さんが、「ママがついているよ、よくしてあげます」と励ます一言と、しっかりと見つめた母の眼差しとにより、目覚しい勇気と力が甦ったといいます。犬養さんはこの経験を通して、“真の愛の眼差しや行動や言葉に触れた経験を、幼少時に持つことは、聖書の「言葉」なかんずく新約の「言葉」を、分析研究などと違うレベルで(もちろんそれらをも踏まえるが)把握するための、貴重な一土台になると筆者はいつも考えている”と悟るのです。

私たち大人は、日々の生活の中で、子どもたちに話しかけ、物語を語り、歌い、祈りを共にし、喜びと楽しみの言葉で子どもを包み込むことを何より大切にしたいものです。それが“育てる”、つまり育つ力を支え養うことになります。絵本も昔話も詩も童話も、楽しみと喜びの言葉の体験です。子どもに自分で読ませるのではなく、徹底して読んでやることにより、親が言葉を口移しにして、子どもに食べさせるのです。

言葉は食べるのです。食べて食べて=聞いて聞いて血肉にするとき、生きて働く言葉の力は身につきます。言葉を頭で覚える以前に、言葉を食べる喜びを知ることが肝要です。

「あなたの御言葉が見いだされたとき
わたしはそれをむさぼり食べました。
あなたの御言葉は、わたしのものとなり
わたしの心は喜び躍りました。
万軍の神、主よ。
わたしはあなたの御名をもって呼ばれている者です。」 (エレミヤ書15:16)

伝道者パウロの手紙が各教会へ送られたとき、会衆の前で、きっと声に出して繰り返し読み上げられたと想像します。文字を読める人は少なかったでしょう。人々は、「パウロ先生からのお便りが来た」と、心躍らせ、耳を傾け、心を開いて、朗読される言葉を聞いたでしょう。そのとき言葉が生きて働く不思議な力と、言葉が喜びそのものであることを人々は感じ、喜びを共にしたはずです。そこにエクレシアはありました。現代はそういう命の言葉を聞く機会が実に乏しくなりました。

それのみか、「マルコによる福音書」第4章の“種を蒔く人”のたとえに語られる<良い土地>が、幼児期から耕されることが少なく、耕されてきてもしばしば受験期に休耕地となって、荒れ果ててしまいます。知識と情報化された言葉がひたすら頭に詰め込まれ、生きて働く言葉の力は失われ、言葉に対する感性も知性も奪われてしまいます。
こうして言葉の喜びと力とを感じなくなり、言葉を失った若い人々の心はいつしか空虚になり、表情は固く冷たく、暖かい笑いは消え、言葉も平板でニュアンスが感じられません。外見はみごとな若者でも、心はボロボロかも知れません。こうして内なる支えをなくし、喜びを自ら創り出す力を失いますと、人は外なる力(物)に頼ります。偶像崇拝です。そして現代の偶像は、物、アルコール、薬物、即物的な欲望の売買と限りなく広がります。

教会は御言葉を語り聞くところ。御言葉により立っています。学校も言葉により存在しています。しかし言葉はただもう聞き流されるばかりです。この聞く力の衰えこそ、教会の衰退、教育の崩壊のもとでしょう。言葉が生きて働かないところに、霊が働くことはないのです。

神は言われた。「光あれ。」

この言葉を改めて考えてみましょう。

(大学チャペル・ウィークでの奨励より)