昭和の激動
1927(昭和2)年~1945(昭和20)年


関東大震災による復興事業は、かねてから考えられていた青山学院と青山女学院合同計画を具体化させる契機となった。

1927(昭和2)年8月、青山学院財団寄付行為の一部変更が認可された。合同後の青山学院は神学部、高等学部、中学部合わせて2,000人を超える学生生徒に旧青山女学院の学生生徒を加え、約3,000人の学生生徒を擁する学園となった。

1941(昭和16)年12月8日、日本のハワイ真珠湾攻撃をもって太平洋戦争が始まった。日本の教育体制は「皇国ノ道」を目的とする方向に転換されたのである。学院構内には教職員・学生生徒の姿が少なくなり、大部分の校舎は交通局や軍関係の諸機関に転用された。そして1945(昭和20)年5月25日の夜間大空襲により、青山学院の約7割の建物が焼失したのである。8月15日、太平洋戦争は日本の敗北をもって終わった。

1927年 8月「青山学院」と「青山女学院」の合同、文部省より認可される
8月青山女学院の名称を青山学院高等女学部と改称(青山学院は神学部、高等学部、中学部、高等女学部[ 専攻科・本科] を置く)
1932年 男子部創立50周年記念行事開催
1933年 高等女学部専攻科(家政科)は専門学校として認可され、女子専門部(家政科)と改称
1937年 青山学院小学財団設立、青山学院緑岡小学校・同幼稚園開校
1939年 第二次世界大戦勃発(ドイツのポーランド侵攻)
1941年 宣教師に米国メソジスト教会より帰還命令が出される
1943年 神学部閉鎖
1944年 専門部(文学部、高等商業学部)を閉鎖し、明治学院に合併
「青山学院工業専門学校」を開校
1945年 空襲により校舎・諸施設の大半罹災
ポツダム宣言受諾

  • 青山学院と青山女学院の
    合同を報じる「青山学報」

  • 空襲被害
    中央は間島記念図書館

  • 空襲被害
    プラット記念講堂