キリスト教教育の礎になった人々

ドーラ・E・スクーンメーカー (Dora E. Schoonmaker) ロバート・S・マクレイ (Robert S. Maclay)
ジュリアス・ソーパー (Julius Soper) ミルトン・S・ヴェイル (Milton S. Vail)
ジョン・F・ガウチャー (John F. Goucher) 津田 仙
本多 庸一 高木 壬太郎
アルバータ・B・スプロールズ (Alberta B. Sprowles) マイラ・B・ムーン (Mira Bell Moon)

ドーラ・E・スクーンメーカー (Dora E. Schoonmaker)

スクーンメーカーは米国ニューヨーク州の出身で、小・中学校の教師をしていましたが、外国伝道の使命を感じて単身日本人のために宣教することを決意し、1874年10月、米国のメソジスト監督教会から日本への最初の婦人宣教師として派遣されました。僅か23歳という若さでした。
彼女は来日すると、さっそく不眠不休の努力をし、一ヶ月後には早くも麻布本村町に一軒の家を間借りして学校を開くに至りました。11月16日のことで、校名を「女子小学校」と称しました。これが青山学院の源流の一つであり、学院はこの11月16日をもって創立記念日としています。

ロバート・S・マクレイ (Robert S. Maclay)

学院本部の正面に向かって左側に、マクレイ博士のレリーフ像がたっています。マクレイは米国ペンシルバニア州の出身で、1873年6月にメソジスト監督教会日本伝道総理として来日、祈りと熱意と忍耐をもって人々の心を動かし、多くの日本人を信仰に導きました。1879年、横浜の港を見下ろす高台に「美会神学校」を設立し(「美会」とは、「Methodist Episcopal 教会」の最初の<M(美)>と最後の<会>をとったものです)、1881年には米国の知友に日本におけるキリスト教教育の重要性を訴え、巨額の献金を募って現在の青山キャンパスの土地を購入し、当時築地にあった東京英学校と美会神学校を合併して東京英和学校を開きました。その総理(初代院長)に選ばれたのがマクレイ博士です。

ジュリアス・ソーパー (Julius Soper)

青山学院の基礎を築いた先達の一人としてソーパー博士の名も忘れることができません。博士は米国メリーランド州出身で、1873年にメソジスト監督教会宣教師として来日し、以来30余年にわたって宣教と教育の活動を続けました。
来日の翌年には津田仙(現津田塾大学創立者津田梅子の父)の経営する麻布の学農社を説教所として日曜礼拝と日曜学校を開始しました。この津田一家に続いて、慶応義塾の創立期に関係した古川正雄の一族が入信。彼らの協力によって伝道は日に日に進み、1878年5月、築地に青山学院の源流の一つ「耕教学舎」が設立されました。これがやがて「東京英学校」、「東京英和学校」となり、1883年に現在の青山の地に根を下ろすことになります。

ミルトン・S・ヴェイル (Milton S. Vail)

マクレイ初代院長の祈りと努力によって1879年10月1日、美会神学校が開設されました。その初代校長に選ばれたのがヴェイルです。米国ニューハンプシャー州の出身で、彼の父は米国に最初にメソジスト派神学校を開いた人でした。この父の下で神学を志し、ドイツに学び、やがてオハイオ大学の予科部長に選ばれましたが、その二年後の1879年9月には美会神学校の校長として横浜に到着。そのとき彼はまだ26歳という若さでした。
天分豊かなヴェイルは、希語、蘭語、独語のほかに教会史、教理史などを教え、学生を愛し、その一人一人のために毎朝祈りを捧げた人でした。その姿は長く卒業生の胸のうちに生き続けたと伝えられています。

ジョン・F・ガウチャー (John F. Goucher)

ガウチャーは大学を卒業するとすぐメソジスト教会の牧師となり、本国の米国はもちろん、ヨーロッパ、アフリカ、中国、韓国、日本など広く宣教の歩を進め、莫大な経済的援助を続けました。
また同じペンシルバニア州出身のマクレイ博士(初代院長)を尊敬し、その日本での活動にも惜しみなき援助を与え、これが美会神学校、東京英和学校など青山学院の源流を支える大きな力となりました。またマクレイ、ソーパーなどの努力により、現青山キャンパスの土地を購入することができたのもガウチャーの献金によるものです。
1887年には現在の大学記念館のあたりに美しい洋風校舎が彼の献金によって建てられ、ガウチャー・ホールと称されました。
2001年に建てられたガウチャー・メモリアル・ホールもガウチャーの功績を記念するものです。

津田 仙

ドーラ・E・スクーンメーカー女史が、1874年11月16日に青山学院の源流である「女子小学校」を創始するにあたって、これを成功に導いた最大の功労者が津田仙でした。津田は佐倉藩家臣の家に生まれた武人でしたが、新時代の息吹に触れて蘭語と英語を学び、わが国の農事改良のために生涯を捧げました。
わが国最初の農学校創立、「農業雑誌」の創刊などのほか、アスパラガスやストロベリーの日本への移植栽培、その他数々の功績を残しています。
彼は次女の梅子(現在の津田塾大学創立者)を通してメソジスト教会の宣教師を知るようになり、青山学院の基礎作りにはいかなる協力も惜しみませんでした。「女子小学校」の最初の生徒は、彼の妻と長女、長男、次男、姪、そして妻の友人ら7名であったと伝えられています。

本多 庸一

ロバート・S・マクレイの後を継いで1890年に青山学院の前身、東京英和学校の第2代校長(院長)に選ばれたのが本多庸一です。
本多院長は1848年に津軽藩士の子として弘前に生まれ、幼少より儒学を学び、兵法・剣術の達人として動乱の時代を過ごしました。明治に入ると藩命を受けて宣教師サミュエル・R・ブラウンの塾で英学を学び、25歳でキリスト者になりました。
1874年に帰郷して東奥義塾塾頭となり、牧師、青森県議会議員として広く社会に貢献しました。
本多院長は武士道とピューリタニズムに培われた謹厳さと共に、キリスト教に養われた柔和さをもち「慈父の如き先生」と慕われつつ、17年間にわたり院長として学院発展の基礎を固めたのです。間島記念館前に胸像が建てられています。

高木 壬太郎

ロバート・S・マクレイ、本多庸一、そして小方仙之助に継いで第四代院長に就任したのが高木壬太郎です。1913年のことでした。高木は元治元年、遠江国の医家に生まれ、幼少にして漢学を好み、蘭学塾、静岡師範等に学び、若干24歳にして静岡県下の高等小学校長になり、教育界に名を知られる存在になりました。
翌年には洗礼を受け伝道者を志し、カナダに留学し1898年より牧師として活躍、1904年より青山学院教授となりました。優れた学者で、名著『基督教大辞典』を編纂し、無類の歴史的価値を持つメソジスト教会機関誌『護教』の主筆として思想界に多大の影響を及ぼしました。
一方遠大な視野の持ち主で、当時すでに青山を大学にする計画を立て旺盛な活動を続けたのですが、志半ばにして1921年病を得て急逝されたことは、惜しんで余りあることと言わねばなりません。

アルバータ・B・スプロールズ (Alberta B. Sprowles)

青山学院の発展、女子教育の充実のために貢献した一人に、アルバータ・B・スプロールズがいます。スプロールズは1872年、米国フィラデルフィアに生まれ、1906年メソジスト監督教会婦人外国伝道会社より派遣されて来日しました。
遺愛女学校校長を経て1914年に青山女学院院長として迎えられ、爾来、青山学院高等女学部部長、女子専門部部長を歴任し、青山のために生涯祈り続けた女性です。このスプロールズの熱心な祈りと活動に米国のメソジスト教会はいたく動かされ、そのころ婦人教育家プラット夫人から寄附された4万ドルを青山のために用いることとし、これを資金として1939年に女子教育のための講堂が建てられました。
当初はプラット講堂と名づけられましたが、戦災にあった講堂の修復募金に尽力したスプロールズの功績を記念して「プラット・スプロールズ講堂」(PS講堂)と呼ばれるようになり、現在も、高等部の礼拝堂兼講堂として親しまれています。

マイラ・B・ムーン (Mira Bell Moon)

マイラ・B・ムーンは米国オハイオ州の出身で、1913年に来日して青山学院の中学部と高等学部の英語教師となりました。同時に始めた課外活動「バイブル・クラス」は毎回200名以上が集まるという盛況ぶりで、生徒たちからよく慕われた教師でした。正式機関から派遣された宣教師ではなく、学院経営に参画することもない一講師でしたが、その深い信仰、教育にかける情熱、そして身をもって示された愛は、同僚や教え子たちに大きな影響を与えました。
1935年2月11日のこと、青山南町4丁目を歩行中、タクシー運転手の不注意から先生は重症を負う事故に遭いました。しかしムーンの口からもれたのは、苦痛と呪咀の言葉ではなく、運転手へのひたすらなとりなしの言葉でした。彼をかばい、貧しい家族をかえりみてやまぬ先生の言葉に、本人はもちろんのこと、枕頭に集まった人々から警察関係者にいたるまで感涙にむせたということです。そしてそれが翌々13日に召天したムーンの遺言となりました。