押絵のお雛様を展示しています(2/17~4/28)

押絵雛(おしえびな)は、1885年頃から数年間、海岸女学校で押絵を教えていた小崎百寿(ももじゅ)の作品です。人形が制作されたのは、百寿の初孫が生まれて(1882年)から数年のうちと推測され、約130年経っているということになります。  原田ロクゴー氏(青山学院女子短期大学非常勤講師)に押絵の技術と雛人形についての解説をしていただきましたので次に紹介いたします。
「この押絵雛は、御内裏様と御雛様・三人官女・五人囃子という構成の押絵技法の立体雛飾りです。押絵技法の立体雛という説明だけでは想像しにくいと思いますので、まず押絵というものがどのようなものであるかから説明していくこととします。今日あまり一般的ではなくなりましたが、押絵は江戸時代に大奥女中の間で流行した手芸で、“御細工物"と呼ばれ、明治頃まで盛んに行われていた布細工です。羽子板・額絵・壁掛など装飾品や、筥迫・懐紙入れ・団扇など実用品にも使われた技法ですが、普通は平面にわずかなふくらみを持たせて、浮き彫りのようにして模様を表したものです。しかし、この雛飾りは平面性・正面性を重視したものではありますが、立体になっています。現物が飾られているのを最初に拝見した時、雛人形一点ずつの美しさ等は目に入らず、雛段に並ぶ一揃いが作る空間に驚いてしまいました。視点を正面から僅かにずらしただけで、空間が歪んでしまったのかと思えるほど扁平になり、裏面が見えたからです。
さらに雛人形それぞれを見ていきますと、御内裏様と御雛様は裏側も押絵でふくらみを持たせたつくりになっていますが、三人官女は内絹が、五人囃子は金色の布が裏一面に張ってあるだけです。また、御内裏様と御雛様の台座は緑色の絹地を張り縁付ですが、その他は金色の布で張っているだけです。明らかに百寿が御内裏様と御雛様を別格として扱っていることが窺われます。百寿は雛飾りを収納しておくときのことも考え、五人囃子の台座は五台が入れ子になるように工夫しています。金色の布と述べてきましたが、実は金色だった布と言わなくては正しくないのかもしれません。現在、茶色になってしまっている布からは想像しにくいかもしれませんが、この押絵雛ができた当時は、かなりきらきらした華やかなものであったと思われます。おそらく、台座や五人囃子の背面の金色が反射して、雛壇の上部を鮮やかに浮き立たせていたことでしょう。
残り裂も潤沢にあったわけではないのでしょう、御内裏様と御雛様・三人官女には格式の高い織物を想起させる布が使われていますが、五人囃子には平安雛にはありえない友禅生地が使われています。また、振袖に裳裾というちぐはぐなところも見られますが、考証の正しさを求めるべきものではなく、小崎百寿の感性と技術そして雛飾りを作りたいという願いを優先して素直に愛でるものかと思います。」

(参考・・小崎百寿の次男小崎弘道は牧師で明治・大正期キリスト教界を代表する人であり、同志社の社長(現・総長)も務めました。弘道の妻千代は旧姓を岩村といい、青山学院源流の一つ「女子小学校」開校当初の生徒の一人でした。青山女学院校友会初代会長を務めています。)

女性の五人囃子

雛人形を側面からみたもの

2017.02.28