Home > 青山学院の紹介 > 青山学院の歩み > 青山の地に
美會神学校と東京英学校の合同を前提として、新しい校地の購入が検討された。敷地の選定委員は、青山南町7丁目1番地に高等教育を行うための理想的な土地を見つけ、米国のメソジスト監督教会に土地購入資金を要請した。これに応じたジョン・F・ガウチャー個人の寄付によって1882(明治15)年秋、総額6千円で、伊予西条藩松平左京大夫上屋敷跡地約3万坪を購入した。これが、現在の青山キャンパスの中心となったのである。
海岸女学校では生徒数が増加したため、東京英和学校の敷地の一部を40年の期限で借り、上級生のみを移して1888(明治21)年東京英和女学校として授業を開始した。
1894(明治27)年、東京英和学校は青山学院と改称。その5年後の1899(明治32)年、「文部省訓令第12号」が発令された。この訓令は実質的にキリスト教教育を行う私立学校を弾圧するものであり、宗教教育を続けるのであれば、高等学校への入学資格や徴兵猶予などの特典がなくなるというものであった。この時に学院は建学以来の精神を貫き、毅然としてキリスト教に基づく教育を続ける道を選択した。失われた特典は、キリスト教主義学校代表者たちの政府との忍耐強い折衝により、数年で回復された。
| 1883年 | 「東京英学校」は現在の青山の地 に移転し、「東京英和学校」と改称 |
|---|---|
| 1888年 | 「海岸女学校」の上級生は、現在の青山の地に移り「東京英和女学校」と称す |
| 1890年 | エラ・M・ブラックストック 「海岸女学校」に手芸教室を開く |
| 1893年 | 「海岸女学校」に幼稚園を開園 |
| 1894年 | 「東京英和学校」は「青山学院」と改称。神学部、普通部(高等普通学部・英語師範科・予備学部)を置く 「海岸女学校」を閉鎖し、「東京英和女学校」に合同 |
| 1894年 | 日清戦争始まる |
| 1895年 | 「東京英和女学校」は「青山女学院」と改称、普通学部(高等科・予備科・普通科)、手芸部、幼稚園を置く |
| 1899年 | 「文部省訓令第12号」公布。宗教教育に支障をきたす |
| 1899年 | 青山女学院手芸部は独立し、「青山女子手芸学校」となる |
| 1900年 | 青山女学院同窓会発足(後に青山女学院校友会と称す) |
東京英和学校・東京英和女学校構内(1892年頃)
文部省訓令第十二号







