私たちの日常の生活から、言葉が消え、失われていくのを感じます。 かつては生活に根づいていた、“お隣さん”や“ご近所”といった感覚も、言葉と共になくなりました。そして互いに知らぬふりをし、無関心を装い、他人を 無視しようとするようになりました。
人間関係が煩わしいと感じるこのような気持ちは、どこからどうしてもたらされるのでしょう。こうした人と人との関係か らは、当然、言葉が消えていきます。言葉が失われた所に芽生えるのは暴力です。
いまは家庭からも言葉が失われていきます。家族の間からも、互いを支え合う言葉や子どもを包みこむ言葉が消えていきます。その一方で、 情報と化した言葉、知識に化けた言葉が氾濫しています。子どもたちの頭の中も、そうした寄せ集めの冷たい無機質な言葉でいっぱいです。それを詰め込む手段 や方法ばかりが工夫されます。知識で頭がいっぱいの子どもを見ると、心はどうなっているのか、と思います。心に響く、生きて働く、心が通い合う言葉が語ら れぬ環境に成長する子どもたちの未来に、「信仰と希望と愛」があるだろうかとても不安になります。
言葉が失われることは、人が人でなくなることです。人が人として育たなくなることです。人が生きていく根が断ち切られることです。人と人との絆や交わりが失われ、心が通い合わなくなれば、人はばらばらになり、孤立し、そして争い合うでしょう。家庭も失われます。神と人との交わりはどうな るのでしょう。
言葉は触れることも把むこともできません。言葉は眼にも見えませんから、失われていくことにも気づきません。こうして精神が崩壊してい くのにも気づかずにいるのが、現代の私たちの姿です。そしてその結果は、様々な社会現象として現れています。いじめも不登校も、そうした大人の病理の反映 だと思います。言葉が消えた家庭で育った人々は、言葉の力を失い、結婚しても家庭が作れない、子どもを産んでも親になれない、どう子どもを育てればよいの かわからない、という不安と苛立ちの中で、夫婦として共に生きる目標を見失い、親子共々苦悩に打ちひしがれていきます。
私たちは乳飲み子のとき、母親や父親の腕に支えられ、胸に抱かれ、愛情と喜びいっぱいの暖かい言葉に包まれ、言葉に抱かれて育ったので す。このとき乳飲み子は、絶対的に支えてくれる人の存在を、全身全霊で感じたはずです。そして自分のすべてを委ねる中で、安心感と安らぎと慰めとに満たさ れたのです。“共に居る”喜びを深く深く体験しました。この体験が家族の根です。そしてこれが信仰への原体験だったと思います。“親”が神から託された有 り様でした。
犬養道子さんの『聖書のことば』(新潮社刊)の第三部「みことばと息吹き」という章の始めに、幼い頃の病院での手術の体験を記した文章 があります。手術を初めて受ける恐怖に震えている自分を、白衣をまとって付き添う決意をしたお母さんが、「ママがついているよ、よくしてあげます」と励ま す一言と、しっかりと見つめた母の眼差しとにより、目覚しい勇気と力が甦ったといいます。犬養さんはこの経験を通して、“真の愛の眼差しや行動や言葉に触 れた経験を、幼少時に持つことは、聖書の「言葉」なかんずく新約の「言葉」を、分析研究などと違うレベルで(もちろんそれらをも踏まえるが)把握するため の、貴重な一土台になると筆者はいつも考えている”と悟るのです。
私たち大人は、日々の生活の中で、子どもたちに話しかけ、物語を語り、歌い、祈りを共にし、喜びと楽しみの言葉で子どもを包み込むこと を何より大切にしたいものです。それが“育てる”、つまり育つ力を支え養うことになります。絵本も昔話も詩も童話も、楽しみと喜びの言葉の体験です。子ど もに自分で読ませるのではなく、徹底して読んでやることにより、親が言葉を口移しにして、子どもに食べさせるのです。
言葉は食べるのです。食べて食べて=聞いて聞いて血肉にするとき、生きて働く言葉の力は身につきます。言葉を頭で覚える以前に、言葉を食べる喜びを知ることが肝要です。
「あなたの御言葉が見いだされたとき
わたしはそれをむさぼり食べました。
あなたの御言葉は、わたしのものとなり
わたしの心は喜び躍りました。
万軍の神、主よ。
わたしはあなたの御名をもって呼ばれている者です。」 (エレミヤ書15:16)
伝道者パウロの手紙が各教会へ送られたとき、会衆の前で、きっと声に出して繰り返し読み上げられたと想像します。文字を読める人は少な かったでしょう。人々は、「パウロ先生からのお便りが来た」と、心躍らせ、耳を傾け、心を開いて、朗読される言葉を聞いたでしょう。そのとき言葉が生きて 働く不思議な力と、言葉が喜びそのものであることを人々は感じ、喜びを共にしたはずです。そこにエクレシアはありました。現代はそういう命の言葉を聞く機 会が実に乏しくなりました。
それのみか、「マルコによる福音書」第4章の“種を蒔く人”のたとえに語られる<良い土地>が、幼児期から耕されることが少なく、耕さ れてきてもしばしば受験期に休耕地となって、荒れ果ててしまいます。知識と情報化された言葉がひたすら頭に詰め込まれ、生きて働く言葉の力は失われ、言葉 に対する感性も知性も奪われてしまいます。
こうして言葉の喜びと力とを感じなくなり、言葉を失った若い人々の心はいつしか空虚になり、表情は固く冷たく、暖かい笑いは消え、言葉 も平板でニュアンスが感じられません。外見はみごとな若者でも、心はボロボロかも知れません。こうして内なる支えをなくし、喜びを自ら創り出す力を失いま すと、人は外なる力(物)に頼ります。偶像崇拝です。そして現代の偶像は、物、アルコール、薬物、即物的な欲望の売買と限りなく広がります。
教会は御言葉を語り聞くところ。御言葉により立っています。学校も言葉により存在しています。しかし言葉はただもう聞き流されるばかりです。この聞く力の衰えこそ、教会の衰退、教育の崩壊のもとでしょう。言葉が生きて働かないところに、霊が働くことはないのです。
神は言われた。「光あれ。」
この言葉を改めて考えてみましょう。
(大学チャペル・ウィークでの奨励より)