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西田 恵一郎<br>中等部宗教主任

西田 恵一郎
中等部宗教主任

「汝らはキリストの體(からだ)、各々その肢(えだ)なり」

先日、一人のキリスト教学校出身の方とお話をする機会がありました。「私は宗教主任です。宗教主任という言葉は、あまり聞き慣れない言葉でしょうね。教会に牧師がいるように、キリスト教学校にも牧師がいるのです。その呼び名が宗教主任です」と自己紹介しました。

その方は「宗教主任という言葉は初めて知ったのですが、確かに聖書の先生がいらしたのを覚えています」とおっしゃいました。宗教主任は確かに聖書の先生です。大学ではキリスト教概論の先生です。「聖書の先生」ですから、勿論、聖書を教えます。「聖書科」「宗教」など学校によってその名称は異なるようです。「人間学」としている学校もあります。なかなかおもしろい呼び方だと思います。

教え方も様々で、テキストは聖書のみとして、「聖書の先生」が講義形式で聖書を読み解く。副教材として市販の教科書や独自のプリントを使うけれど、基本は聖書の講義。授業ごとにテーマを決め、「聖書の先生」がファシリテーター(推進者)になり、生徒たちが自由に意見を交わし、議論する。因みに中等部では、「聖書学習」と呼ばれる聖書の解説の時間に加えて、「テーマ学習」といういじめや自死、脳死や臓器移植など現代の社会問題を対話形式で学ぶ時間あり、「グループ学習」という生徒によるグループ発表を中心とした相互教授形式で学ぶ時間ありとバラエティーに富み、その展開に時間が足りないという有り様です。

大学でのキリスト教概論という講座の先生は、宗教主任です。内容は講座名が示す通り、キリスト教を概観することです。学生たちはキリスト教の様々な側面を学ぶのですが、宗教主任たちはそこで聖書を開き、語り、教えます。大学でも宗教主任は、やはり「聖書の先生」なのです。授業で聖書を教えること、これが宗教主任の務めの一つです。

また、宗教主任は牧師ですから、礼拝で説教をします。教会では、牧師は一週間に一回、主日(日曜日)に礼拝説教をします。この説教が、牧師の最大の務めと言っても過言ではありません。牧者として聖書の御言葉を語ることによって、羊としての信徒の魂を養うのです。そうだとすると、牧師である宗教主任は、一週間に一度は礼拝説教をするべきなのです。これは私の持論です。そして御言葉によって、託されている園児・児童・生徒・学生や協働者である教職員の魂を養うのです。これが宗教主任の第一の務めだと思います。この二つの務めに専念することが、キリスト教学校で働く牧師としての宗教主任の使命です。

もう一つ忘れてはならない重要な使命があります。それは、祈りです。「宗教主任は、行事屋・祈り屋」と言われたことがあります。私は、これを悪い意味に捉えていません。確かに、宗教主任は多くの行事に出席します。そこでの役割は祈ることです。集まりが守られ、祝福されるように万物を創られ、今もそれを治めておられる神に願い求める ―― 光栄なことです。しかし、そのような場での祈りは、使命として課せられた祈りの表立った一面にすぎません。他に「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈」(マタイ六章六節)ること、更にもう一つは、誰もいない礼拝堂で独り、キリスト教学校の生命(いのち)である礼拝に主の臨在を求める祈りです。なぜなら、生活指導も教科指導も人格教育も礼拝に根差し、礼拝を通して行われると信じるからです。

牧師の果たすべき役割は四つあると言われます。神と人との関係を執り成す祭司的役割。悩みや問題を持つ人と共に考え、解決を見つけようとする牧会者的役割。「目に見えるものと見えないものを結びつけ、この世と神の国とを関係づける象徴としての働き」(『講座 現代キリスト教カウンセリング』、「第八章 カウンセリングにおける祈りと賛美」深田未来生)を行う象徴的役割。そして神から離れ、自己中心的傾向を持つ人間に対して警告を発して、神の御心(意思)を伝える預言者的役割。紙幅が限られ、すべてについて触れることはできませんが、預言者的役割について一言述べておきたいと思います。

キリスト教学校も、現代社会に存在し、その流れの中で運営され、活動している共同体である以上、時代の流れを全く無視することはできません。しかし、流行に合わせ過ぎたり、流されてはなりません。言わずもがなのことです。キリスト教学校の拠って立つ処は万物を創られ、今もそれを治めておられる神への信仰にあり、その模範は命懸けで異国に赴き、この神を紹介した宣教師たちと、その後を引き継いだ日本人の先達たちであるはずです。彼らの生き方や言葉によって伝えられたキリスト教学校の在り方の本質は、たとえ頑なと言われようと、時代遅れと言われようと貫くべきところだと思います。

本多庸一(青山学院第二代院長)は、「希(ねがわ)くは神の恵により我輩の学校より所謂(いわゆる)Man(人物)を出さしめよ。Man の資質多くあるべしと雖(いえど)も"Sincerity(裏表のない誠実さ), Simplicity(飾りのない実直さ)" 最も大切なるべし」と言い、高木壬太郎(たかぎ みずたろう)(青山学院第四代院長)は「…最も大なる事業ハ最も静に為さるもの也。…余の名誉心は百部の書著ハさんことよりも、基督(きりすと)の一言を生活せんこと也」という言葉を残しています。この本質を忘れかけた時に、思い起こさせる言葉を語るのが預言者的役割を負っている宗教主任です。旧約聖書の預言者たちが担っていた仕事が正にそれでした。神に選ばれた弱小民族イスラエルが拠って立つ処は神の他ありませんでした。

しかし王たちは、その時代に即したと思われる戦略に走るのです。預言者たちは、「神に立ち返れ。拠り頼むべきは神であり、人の策略ではない」と説きました。

教育と研究において、そして学校経営において今の時代の流れに沿った対策や手法などは無視できないでしょう。しかし、まず必要なのは、拠って立つべき処の確認です。その上で、もっと学び、もっと苦しんで青山学院らしさを継承しながら、新しい青山学院らしさを生み出すのです。宗教主任を含めた一つひとつの肢体が、"Sincerity, Simplicity"を目指す者として働く時、青山学院という一つのキリストの体は「地の塩、世の光」としての存在を、意図せずともこの世に示しているのでしょう。こういう衒(てら)わない在り方、進み方が青山学院らしさの一つではないかと思うのですが。