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山本 与志春 中等部<br>部長

山本 与志春 中等部
部長

信仰に導かれ青山学院に遣わされ

私は埼玉県の秩父で生まれ、高校を卒業するまで地元で暮らしていましたが、大学に進むため、都内の学生寮に住むことになりました。寮で出会ったクリスチャンの友人に教会を紹介され、すぐに教会に行くことにしました。なぜなら私は当時宗教に対して、特にキリスト教に対して嫌悪感を持っていましたが、大学で文学を学ぶにあたってキリスト教の基礎を知っておきたいと考えていたからです。

私にはキリスト教に関する疑問が2つあったので、これらを質問しました。しかし、どうもよく分からないのです。そこで十分理解するために聖書を読もうと思いました。読んでいるうちに「神が人をつくった」という仮定を受け入れるなら、聖書の内容は論理的であると思うようになりました。教会には若者、老人、目の見えない人、耳が聞こえない人、実にさまざまな人が来ていました。その人たちは好きなことをして遊ぶこと以上の、目が見えるようになること以上の、耳が聞こえるようになること以上の喜びがあるからこそ、教会に来るのだろうと思いました。私は信仰を持って生きることのよさをぼんやりと感じ、私も信じたいと思うようになりました。そして、ひざまずいて神様に祈ってみました。けれども、もう一人の自分が、信じようとして祈る自分を否定するのです。「そんなポーズをとって何をやっているんだ、お前は自分で自分の決めた道を生きるんだろ。神に従うなんてお前がすることじゃない」とあざ笑う自分がいるのです。私はだめだと思いました。自分が信じたいと思うのに、素直に信じられないのだからもはや信仰を持つことは無理だ、自分は救われないと思いました。そのとき、教会で一冊の本を渡されました。そこに「イエス・キリストは信心深い者のために死んだのではない。不信心な者のために死んだのだ」という言葉がありました。それを読んだときに、信じたくても素直に信じられない高慢な自分を救うためにイエス・キリストが十字架に架かってくださったのだと分かりました。心にすっと光が差し込み、その瞬間に信じる決心をしたというより、信仰を与えられた思いでした。そして、「神様ありがとうございます」という言葉が出てきました。

大学卒業後、埼玉県の公立中学の教師になりました。当時、公立中学校は校内暴力で荒れていた時代でした。教師が生徒に殴られることさえあり学校を去っていく教師も多く、私は放課後、近くの土手に転がるシンナーの缶を拾って歩く、そんな毎日でした。最初の3年間はとても大変で、もう教師は続けられない、と思ったことが何度もありました。けれども幸いなことに私は荒れていた子どもたちとよい関係を築くことができたのです。若かったこともあると思います。生徒たちを、教会に招いたり、家によんだり。そうして彼らと時をともにするうちに、彼らを本当に可愛いと思うようになりました。荒んだ心をそっと抱きしめてあげれば、その心を開いてくれます。暗い学校生活の中にも、しだいに明るい兆しが見えてきました。学校が落ち着きを取り戻し、私も何とか乗り越えられたのは生徒との交流があったからだと思います。

教師になってしばらくたった頃から、私はキリスト教放送局(日本FEBC)で週に一度、15分ほどのラジオ番組を受けもっていました。手紙やハガキをいただいて、賛美歌を流すという番組です。放送では学校であったことなどを交えながら、さまざまな話をしました。そのラジオ番組を当時の青山学院中等部の高柳教頭先生が聴いてくださっていて、「この番組を担当している国語の教師はうちにくる気はないだろうか」と放送局に問い合わせてくださったのです。青山学院に何のかかわりのない者が声をかけてもらえるなど全く予期していなかったので大変驚きました。そのころ私は、生徒に自分の生き方を語るとき、信仰に触れられないもどかしさを感じ、仕事と家庭と教会のバランスについて悩んでいたときでもありました。そこで、自分を教師として育ててくださった公立学校の先生や生徒に大変申し訳ないという思いを抱きながら、神様が祈る前から道を備えてくださったことに感謝して、青山にやってきました。

公立中学から青山にきて、最初は驚きの連続でした。美しいキャンパス、上品で優しい教職員、個性あふれる生徒、手厚い待遇、感謝することばかりです。しかし、戸惑うこともありました。それは、生徒たちの髪型や服装などの自由さです。公立では派手な格好をする子は成績の悪い子だったのですが、青山では真面目で優秀な生徒がおしゃれを楽しんでいるのです。そして、先生が子どもたちを成績や外見などで評価を決めてしまわないのです。本当にすばらしいと思いました。子どもたちが自由だと感じるのは、校則が厳しくないということだけではなく、先生方が子どもたちの違いを受けいれているところにあるのだと実感したのです。子どもたちは認められることを求めています。あなたは大切な人であり、愛されている。あなたが今存在していることがすばらしく、また価値あることなのだということを実感させてあげることが大切なのです。この自尊感情を育むことが、キリスト教教育の大きな役割だと思います。

私はこれからの日本や世界を担う人は、平和な世の中をつくる人であってほしいと願っています。聖書に「剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。」(イザヤ書2章4節)という言葉があります。武力を用いない本当の平和がくるとの預言です。本当の平和な世界を実現するために、人種、民族、国家、宗教、全ての違いや対立を越えて、弱さを担い合い、互いが協力し合う世界に変えていかなければなりません。自分と違うものを価値あるものとして大切にする。違いを尊敬し合うことが、平和な世界を創る基礎なのです。非現実的な理想に過ぎないと言われるかもしれません。けれども、教師が子どもたちに、理想を語らずに誰が語るのでしょう。私は青山学院で学ぶ人は平和を実現する人になってほしいと、心から願っています。それは人を大切にし、許しあい、祈りあう人です。青山学院が育てる人は、平和を創りだす人です。