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西谷 幸介<br>大学宗教主任

西谷 幸介
大学宗教主任

「青山学院寄附行為」第4条第1項─世界的に見ても希有な建学の精神

『青山学報』のこの場所に総合研究所共同研究プロジェクト「キリスト教大学の学問体系論」の報告をしてもらうのもいいことではないでしょうか、とのお勧めを学院宗教部長より頂きましたので、以下はプロジェクトを代表してその報告・紹介をさせて頂きます。

本プロジェクトは2010年度より4年間に渡り研究活動を致しました。その目的は、わが国における私立・宗教立の大学としての青学という存在とその意義を従来に増して明確に自覚し、またしっかりと確認する、という点にありました。
青山学院の「寄附行為」第4条第1項には、「青山学院の教育は、永久にキリスト教の信仰に基づいて、行なわなければならない」という、「わが国のみならず恐らく世界的に見ても希有な、従ってまた貴重な、明確なキリスト教大学としての建学の精神」(『21世紀の信と知のために』より─後述)が謳われていますが、その意義をより深く理解させてくれる学問論の文脈を提示してみようというのが、この研究の課題の一つでした。
字句や事柄の意味はその「文脈」の中に置かれて初めて十全に理解される、と言語学は告げますが、青山学院の建学の精神も、そうしたcontext の提示がない場合、単なる宗教的熱心から噴出した非理性的な標語にすぎない、と片付けられかねません。
そこで、わが国ではまだ未踏の感のある大学学問論の領域での代表的な以下の3著作の本邦初訳を、その文脈の提示の一助として、総研のご理解とご協力も得て刊行させて頂いたわけです。

・ パウル・ティリッヒ『諸学の体系──学問論復興のために』
(原著DasSystem der Wissenschaften nachGegenständen und Methoden,1923; 清水正・濱崎雅孝訳、法政大学出版局、2012年、四六版、264頁)

・ ヴォルフハート・パネンベルク『学問論と神学』
(原著Wissenschaftstheorieund Theologie, 1973; 濱崎雅孝・清水正・小柳敦史他訳、教文館、2012年、B5版、493頁)

・ スタンリー・ハワーワス『大学のあり方──諸学の知と神の知』
( 原著The State of the University.Academic Knowledges and theKnowledge of God, 2007; 東方敬信監訳、塩谷直也・大森秀子・髙砂民宣他訳、ヨベル、2014年、B5版、382頁)

未踏と申しましたが、「学問の学問」としての「学問体系論」は、わが国における明治初期の近代的大学のまさにその出発の時点から、その研究作業がすっぽりと抜け落ちてきた領域でした。いわゆる「実学志向」がこの傾向を助長してきたのです。
わが国の近代的大学はドイツの大学を範とした国立大学として始まったのですが、彼我の最大の相違は日本の国立大学は神学(部)をそのカリキュラムから排除してきたという点にあります。これに対して、青山学院は、前述の建学の精神が示すごとく、初めからキリスト教信仰とその学問である神学を土台・中心とした私学としての教育・研究を目指してきたのです。

伝統的には神学や哲学が大学の学問全体の「体系的総括」(カント)に携わってきました。かの建学理念の文字上の初出は管見では1906年(明治39年)制定の「青山学院 財団法人 寄附行為」第2条です。このように青山学院は当初より明確な私立キリスト教学校としての自覚をもった教育機関でありました。

先の3冊の学問論の大作を参照しながら、本プロジェクトメンバー9 名がそれぞれの専門領域から書き下ろした12編の論文集が、今回の青山学院大学総合研究所叢書、茂牧人編『21世紀の信と知のために──キリスト教大学の学問論』(新教出版社、2015年2月)でした。

西原廉太先生(立教学院副院長・立教大学大学文学部長)が、前述のごとくに明記された青山学院の建学の精神を初めて知り、「非常に驚いた」というところから始めて、本書についても、「キリスト教大学関係者諸氏のみならず、他大学、ひいては国公立大学の教員たちも熟読すべき数多くの重要な論点を提示している」と評して下さり、ティリッヒ、パネンベルク、ハワーワスの学問論の邦訳に関しては、これら「三大神学者の学問論が訳出されたことに敬意を表すると共に、こうした基礎的作業が、今後の日本におけるキリスト教大学をはじめとするすべての大学将来構想に大きく寄与するものと確信する」と記して下さっております(『本のひろば』2015年9月号、14頁)。

確かに、本プロジェクトメンバーには、共通に、こうした研究が各大学、とくに私立大学の大学としてのインテグリティ(統合性・健全性)の自覚への促しとなり、日本の大学全体の大学論のための基盤をも提供しうるのではないか、という思いがありました。あの私立キリスト教大学の立場を旗幟鮮明にした建学理念の故に、青学にはそうした視点をもちうる特権のみならず、それを率先して学問的に意味づけ展開する義務も責任もある、と言えるかもしれません。いまだ力足りずという面は否めませんが、わが国で未踏の学問領域に自覚的に踏み入ったことについては、いささかの気概も感じたことでした。

最近、文科省が全国86の国立大学(旧来の通称を使用)に人文社会学系の学部・大学院の廃止や見直しをするようにとの、実に奇妙な通知を出しました。そこには企業の要請と関連した理工学系への偏重傾向が見え見えです。直後、学問とは何かがここでは全く理解されていない、との批判が巻き起こり、関係官僚から、そこまで大げさな内容ではなく、もっと限定された提案です、との言い訳もあったのですが、しかし確かにそこには文科省の本音が見え隠れしており、これはその国公立大学観がかの悪しきDNAからいまだ抜け出し切れていないことの紛れもない証拠であると思われます。ここに先にも申しました「実学」志向傾向が継続しているのです。

もっとわかりやすく言えば、「功利主義的価値観」の支配です。ハワーワスはこれが近代の大学を毒してきたと指摘します。そして、それが大学を支配し出すと、大学は健全な学問論や総合カリキュラムを等閑視して、「官僚主義的経営管理」に走るのだ、と言います。問題なのはこの傾向が私立大学にも侵入してきているということです。

青山学院が同じような手法で維持管理される教育機関に堕していかないよう、絶えずあの建学の精神が自覚的に掲げ続けられるべきではないでしょうか。