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河見 誠<br>女子短期大学現代教養学科<br>日本専攻教授・副学長

河見 誠
女子短期大学現代教養学科
日本専攻教授・副学長

「既に得たというわけではない」生き方

イエスは「わたしについて来なさい」「わたしに従いなさい」(マタイ四:一九、九:九)と招いています。しかしなぜ私たちはキリストに従う者となり、キリストの中に生きる必要があるのでしょうか。

「喜びにあふれた生活」のため、死者の中からの復活すなわち「永遠のいのち」を得るためでしょうか。その通りでしょう。でも直ちに反論が出されるでしょう。信じるだけでどうして喜びが生まれるのか、自分の力で努力しないで喜ばしい結果を手に入れることができるはずがない。
自分は死後のことには関心はなく、今のこの世を幸せに生きたいのだ。これらの意見もよくわかります。
しかし私は、信じることによってしか得られない喜びがあり、それは自分の努力によって得られる喜びよりも遙かに奥深い喜びである、また永遠のいのち、復活は「この世」を幸せに生きることに直結する、と思うのです。

聖書の中に「愚かな金持ち」のたとえがあります。豊作であったが、穀物や財産をしまっておく場所がないので倉を建てることにして、「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と思っている金持ちに対し、神は「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われる、という話です。そしてイエスは「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」と諭します(ルカ一二:一三─二一)。

この金持ちは必ずしも悪いことをしてではなく、自らの努力によって富を得たかも知れません。だとすれば、富の蓄積は正当な報いであり、喜んで然るべきでしょう。しかしそうだとしても、むなしい努力だったわけです。努力によって得ようとする喜びは、努力が結実しなければ得ることはできません。結果を得るための競争に勝てないかも知れませんし、勝ったとしても愚かな金持ちのように喜びを堪能する前に命を失うかも知れません。このような性質の喜びは、本当に追求するに値する喜びでしょうか。

これに対し、聖書は「常に喜びなさい」(フィリピ四:四)と記しています。信仰を持つこと、すなわちキリストに従い、キリストの中に生きることだけで、喜びが「常に」伴うという前提に立っているのです。つまり、愚かな金持ちの目指した喜び、楽しみとは異なり、たとえ成果を味わう前に命を失うとしても、成果をあげられず勝ち組に残ることができなくても、その努力に着手すらできなくても、イエスの中に生きるならばそれだけで味わうことのできる喜び、「失望に終わることがない」希望、喜びがあるということでしょう。「常に喜びなさい」と何度も勧めている使徒パウロ自身、自らが獲得に至っていない、と述べています。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」(フィリピ三:一二)。

以前私は、アメリカのグランドキャニオンを旅したことがあります。一泊した後、谷底まで自分の足でおりていきました。四時間ほどのハイキングです。ずっと下りというのは、相当こたえました。歩けども歩けども谷底は見えてこないのです。しかし三時間ほど下っていくと、エメラルド色のコロラド川が小さく見えてきました。きらきら輝いていて、これが見えたときは感動しました。ところがそこからが長いのです。山道はくねくねと曲がっていて、直線距離の何十倍も歩くことになります。何度も休みましたが、それでも徐々に近づいてくると嬉しくなってきます。その夜は、谷底の山小屋に泊まることにしていました。早くそこに着いて休みたいなあ、と思いながら歩いていると、山小屋らしいものが現れ人が出入りしていました。あそこだ、と思いさらに歩き、川沿いに到着し、橋を渡りました。嬉しくて思わず記念写真を撮りました。ところが、実はそれは山小屋ではなくてトイレだったのです。そこから山小屋まではさらに三〇分も歩かねばなりませんでした。本当の目的地は、予測とはずいぶん違った所にありました。

そこは岩山に囲まれた小さなオアシスのようで、小川に疲れた足をつけて、しばらく岩を眺めていました。切り立った岩を近くで見ると、いろんな突起があり、遠く上からはきれいな重層構造になっているかに見えた岩には、実はでこぼこで、豊かな表情があることを発見しました。そこで私が感じたのは、谷底に到達できた喜びよりもむしろ、グランドキャニオンをより深く知り、体得できた感動と喜びでした。

また途中の道のりも、目的地到達という観点からすると苦しい手段に過ぎませんが、グランドキャニオンを知り、体得するという観点でその中を歩むならば、驚きと期待の歩みに変わっていきます。おりる途中、上からは全く茶色にしか見えなかった岩肌には、実はたくさんの草や花が咲いており、いろんな動物もいることに気づきました。次第に変わってくる風景、ふと聞こえてくる風の音、疲れて座っているとき声をかけてくれるハイカーとの会話。それらがすべて、グランドキャニオンを知り、体得していく経験となり、そのような出会いを作ってくれたグランドキャニオンのすばらしさに感動するばかりでした。トイレを山小屋と間違ったこともグランドキャニオンの奥深さに対する「驚き」の経験になったのです。

キリストの中に生きる喜びも、同じではないかと思います。キリストの中に生きること自体に軸足を移した姿勢で人生を歩む時には、たとえ目的地が見えない中でも、足が痛む歩みの中でも、一瞬一瞬の中にキリストと共に歩むことの奥深さを知り、驚き、喜びと次の一歩へのエネルギーを得ていくことになるでしょう。目的地に到達してもそれで終わりにはなりませんし、たとえ到達できなくても決して失敗ではなく多くのものを得るのです。「既に得たというわけではない」生き方への転換は、自らのために豊かさを求め、結局自らも周りも手段にして十分に生かすことなくしばしば失望に終わってしまう、死んだような生き方からの「いのち」の回復、復活と言えないでしょうか。キリストの導きの中で人生を歩むことは、私たちの今現在の生き方を「神の前に豊か」な生き方へと変えるものなのです。