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西川 良三<br>高等部 部長

西川 良三
高等部 部長

イエス・キリストの「深きあわれみ」と真の権威

磯部隆著『ローマ帝国とイエス・キリスト』という、この七月に出版されたばかりの本の中で、著者は新約聖書の福音書の記述に関し、あるいはパウロの書簡及びその他の「手紙」の意図について、イエスの時代のイスラエルの地域におけるローマ帝国の支配の影響の大きさを多分に考慮にいれながら、独自の論を展開している。磯部氏は、基本は信仰者の立場を堅持しながら、大変緻密な研究のもと、新約聖書の記事の中の歴史上の事実を追い求めている。

私は聖書の歴史的研究においては全くの門外漢であり、この本の論じている様々な事柄に関し、専門的立場からその是非を述べることはできない。しかし、著者が述べたイエスの「いやし」と「深きあわれみ」については、私自身のイエス・キリストとの出会いを想起させるものであり、特にこの点についてその内容を紹介しつつ、自分の経験について述べさせていただきたいと思う。

磯部氏は、福音書のイエスの「いやし」について歴史上のイエスによるいやしを伝えると思われるケースとしては、マルコ一:二九―三〇ペトロのしゅうとめ、マルコ一:四十―四五重い皮膚病を患っている人、ルカ一三:十―一七腰の曲がった婦人、ヨハネ五:一―九ベトザタの病人のいやし、などを挙げている。磯部氏は、これらは病人のいやしの発端が、イエス自らが積極的に近づいていくというもので、その行為の背景にはイエスの「深くあわれむ」心がある、と述べ、また多くが安息日に行われているという点に着目している。

イエスの「深くあわれむ」心こそがイエスのその心を理解する核心である、と磯部氏は述べる。イエスは自分自身の身に危険が降りかかろうとも安息日にいやしを行った。磯部氏によれば安息日遵守は、イスラエルの民がバビロン捕囚時代、創造者である神への忠誠を示して「その神による外国人支配からの救済を待つ信仰の根幹をなしたもの」である。イエスの時代においては、ローマ帝国からの解放を願って清い民であろうとした結果、「安息日を守らない者・守れない者、律法を守らない者・守れない者は排除され、切り捨てられ」形式主義に陥っていた。そのかたくなな心と闘うべく、イエスは「愛の権威」をもって病気をいやそうとした、と述べる。

イエス・キリストによる「深きあわれみ」に、私自身が高校時代、一人の教師を通じて出会ったのだということを、この本を読んで今更ながらに一層はっきり思わされる。私は一九七〇年に都立新宿高校に入学した。海外の学校で四年間過ごした後、日本での高校生活に希望を抱いて入学したが、当時の学校の中は大変精神的に混沌としたものがあった。大学と一部の高校において学園紛争が吹き荒れた時代の直後で、新宿高校も紛争をその前年経験し、大学受験のために学校全体で熱心に取り組んでいた補習や学力テスト等のあり方が問われ、それらを一切廃止した。

その結果生徒達の多くは何を目指して勉強してよいかわからず、また当時の社会的風潮でもあったが、大人の権威を信じられず、高校二年生ぐらいになると授業をさぼるものが多数出るようになっていた。自分はというと、元気いっぱいすべてに頑張ろうとスタートしたものの、二年になって、失恋や、自分の進路に関する行き詰り等の挫折感から、やはり反抗的な気持ちが芽生えつつ、行き場のない、「つらい」日々を送るようになってしまった。自分を含め、かなりの生徒が「飼い主のいない羊のような有様」になっていたその時、「深きあわれみ」をもって接してくれたのが、高校二年時、三年時に英語を習った澤正雄先生である。クリスチャンの教師で、先生は、もう定年間近であったが、大変な情熱をもって授業をされた。毎回授業の最初には「豆テスト」を行い、導入で英語を使われ、次に一人一人を順番にあてていくといった展開で、力が付いて行くのが実感できた。

他の生徒も皆、澤先生の授業だけは「別扱い」で取り組んでいた。中にS君という授業を「さぼる」ことにおいて常習の者がいて、進級もままならない状況だった。しかし、澤先生はSが授業にいると笑顔で必ず“Good”と声をかけられ、やがてSは先生の授業には決して欠席しないようになり、きちんと予習も行うようになった。彼は無事卒業して、体育大学に進み、そして都の教員採用試験に合格し、しばらくしてから母校の教師になった。

先生は折に触れて聖書に関する話をされたり、ご自分のこれまで人生の大変な苦労、喜びや悲しみについて話されることがあった。そのお話や生徒に対するメッセージが、疲れた我々の心に沁み入り、深く刻まれた。ある時、上級生で、自ら命を絶った生徒がいた。新聞で報道されたのにもかかわらず、学校側は、なぜか何もコメントを発表せず、授業でいろいろな社会の問題に意見を述べてきた先生達も黙ったままだった。しかし、この時澤先生だけは、授業の時「英語で」涙を流しながら、親が大事に育ててきた大切な命を自ら断つようなことは決してしてはならないと訴えておられた。

私は、澤先生との出会いで自分が英語の教師になる道を示された。また、高校時代、澤先生の自分を含めた生徒達に対する「深きあわれみ」に接して、そこに本当にイエス・キリストの姿を見たと信じ、高校三年の時に神様に自分を委ねて洗礼を受ける決心をした。卒業前、澤先生の最後の授業の際に書いた感想の中で、自分の受洗する決心を書くとすぐに葉書をいただき、「人生で大事なことはたくさんありますが、一番大切なことはイエス・キリストを信じることです。私はうれしくて仕方がありません。」とそこに書かれてあったことを忘れない。

今の時代は、グローバル化、ネット化の中で人間の作りだした市場原理主義、効率主義の「権威」が社会に支配の手を広げ、多くの若者が「群れ」から取り残されないよう必死になりながらも、取り残されて貧しくなっていく者、あるいはそれまでよりどころであった自分の周りの文化が壊されて行く中で、居場所をなくし、心を病んでいる者も多くいる。主イエス・キリストの生涯と、十字架と復活によって示された神の「深きあわれみ」こそが真の権威であることを、日々の教育の業の中で明らかにしていくことが、我々の使命であるとあらためて思わされる。