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シュー土戸 ポール<br>学院宗教部長

シュー土戸 ポール
学院宗教部長

歴史は聖なるもの

歴史は聖なるものです。
大きな組織は定期的にその創立を記念します。国や会社、学校などにとって、その創立を記念することは最も自然なことです。特にキリスト教にとって、歴史は特別な意味があります。聖書によると、歴史はただ過去が残した偶然だけではありません。歴史は神の業と人類の先祖の証を物語ります。

新約聖書の最初の箇所は、イエス・キリストの系図です。マタイによる福音書1章1節から17節には、アブラハムからイエスまで合わせて42代の系図、過去から未来へと向かう歴史が記されています。マタイは、イエスの生涯を説明するという新しい話を始めるにあたり、まず歴史を振り返るのです。

イエスの系図の意味
この聖書の箇所には、アブラハムによる民の誕生からダビデの王国までの14代、ダビデからエコンヤのバビロン捕囚までの14代、エコンヤからヨセフそしてメシアの誕生であるイエスまでの14代が記されています。マタイは、意図的に14世代ずつに整理し、重要な人物の名前を記しています。16節には「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。」と記し、イエスは物理的にではなく法的にヨセフの子供であることを示しています。この系図は王座の継承順序を記しており、イエスは、アブラハムの子、ダビデの子であり、ダビデの王座の継承者であるということを明確にしています。マタイは、旧約聖書のメシアの預言がイエスによって成就されたことを証明するために、イエスが誰であったのか、イエスはどこから来ているのか、ということを第一に記録したのです。

さらにマタイは、歴史的に繋がっている人々を紹介することにより、人間の意図ではない神の摂理的な計画によってこれらがなされているということ、そして神は歴史を通して働かれているという歴史の重要性を記しています。

歴史の神
マタイによる福音書1章1節から17節には、歴史を通して働いている歴史の神を見ることができます。イエスの系図には様々な人物の名前が挙げられていますが、皆が輝くような素晴らしい人ではありません。アブラハム、イサク、ダビデなどの信仰のヒーローのような人もいますが、周囲に誇ることができないラハブやタマルのような人も含まれています。また、ヘツロン、アラム、ナフションなどのごく普通の人々や、聖書の中に悪い人と記されているマナセ、アビヤも系図に記録されています。神の歴史は、人間の意図や人間の素晴らしい行動によってできるものではなく、神の業によってできるものであることを意味します。

系図に記されているタマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻バト・シェバの四人に特に注目することで、系図全体の意図が理解できると思います。当時の系図は父親だけが記されるものであったため、ユダヤ人ではない四人の母親は本来系図には入らないはずですが、マタイは敢えて四回も母親を記録しました。さらにタマルは娼婦のふりをして義父と子供をもうけた罪の人ですが、旧約聖書にも記され、マタイもその名を記しています。どのような状況にある人でも、神は救いのために用いて下さるということがタマルを通して示されています。ラハブは娼婦でしたが、信仰によって導かれイスラエルの民に所属できた人です。ルツは異邦人としてその信仰を受け継いだ人です。律法によってではなく、信仰によって救われるということが、ラハブやルツを通して示されています。ダビデはバト・シェバと子供をもうけ、ウリヤが殺されるようにするという大変な罪を犯しています。その中でも二人は許され、神の計画のために用いられるのです。

この四人から、神の特別な意図が見えるのではないでしょうか。ユダヤ人か異邦人かということは関係ないのです。神は、輝くような素晴らしい人だけを必要としている訳でもないのです。歴史の中で、神の働きが人間の限界や人間の罪によって限られてしまうことは決してありません。神は、私たちの全ての弱い所、全ての汚れている所を超えて私たちを用いて下さり、人生を導いて下さるのです。イエスの系図はそのことを証しています。

歴史から形作られる私たち
歴史をお互いに物語ることによって、私たちは歴史によって形作られています。

キリスト教では、歴史を記念することによって、歴史を通して働かれる神の業を覚え世界各地の教会との共通性を確認し、形作られるのです。礼拝の中で何百年前の賛美歌を歌い、古代から用いられている聖書の言葉を読み、イエスの時代から守られている聖餐に与ります。そのことで、一人ひとりの信仰者として、また教会として形作られるのです。

学校でも、同じことが見られます。青山学院の歴史を覚える時、園児・児童・生徒・学生、また教職員も、その歴史によって形作られるのです。青山学院は、様々な試練を乗り越え、変動する社会状況の中で学院の教育方針に従って教育と研究を継続してきました。長年続いている教育を通して、この学校に関わる一人ひとりが形作られています。学院創立者も立派な証のある方々です。歴史は、目的とミッションを思い出すために重要な意味を持ち、私たちを未来へと導いてくれます。

青山学院の歴史が語ること
9月に、私はコロンビア大学ユニオン神学大学院のアーカイブで青山学院の歴史的資料を探してきました。同大の図書館にはジョン・F・ガウチャー本人が残した大量の資料が委託されています。また、ガウチャーが住んでいたボルティモア市を訪ね、ガウチャー大学とガウチャーの教会(Lovely Lane Church)のアーカイブも使わせていただきました。その中に、青山学院の創立者や初期協力者が書いた手紙などを多く発見しました。

まだ整頓されていない資料でしたが、その手紙などは本学院のストーリーを物語っていました。その中には、時々関係者同士で意見が合わないことや人間関係が難しくなることも見られました。また、厳しい社会状況の課題や、時には生徒・学生の不満も見られました。しかし様々な試練に直面しながら、共通の理念と希望を持ち続けていたことも見られます。私たちの先駆者が、大変厳しい環境の中で多くの犠牲を払いながらも、本学院のために大きな希望を抱いて命がけの努力を尽くしていたことが、その手紙から明確に伝わってくるのです。

この歴史は、私たちの中に働いて下さる神の歴史であり、現代の私たちに励ましを与え、同時に未来へと導いてくれるものなのです。