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青山学院は創立150年を迎えました

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2024.11.16

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青山学院は創立150年を迎えました

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青山学院は米国のメソジスト監督教会が日本に派遣した宣教師によって、1870年代に創設された3つの学校をその源流として、本日創立150年を迎えました。

創立150周年を感謝とともに、持続的な発展と未来への飛躍に向けて

青山学院理事長 堀田 宣彌

1874(明治7)年11月16日、米国のメソジスト監督教会から派遣された女性宣教師が、言葉も通じない異郷の地で、「女子小学校」と呼ばれる生徒7名のささやかな私塾を開きました。『それは非常に暗き場所に灯された誠に小さな光でした』と、ドーラ・E・スクーンメーカーは晩年に語っています。

それから150年、幾多の変遷を経て、神様の御守りと御導きのもと、今では幼稚園から大学院まで約24,000名の学生・生徒・児童・園児を擁し、39万人の卒業生を輩出する総合学園となりました。

創立以来この150年を顧みるとき、それぞれの時代において、偉大な先人たちの献身的な働きを忘れることはできません。青山キャンパスの土地3万坪を私財をもって購われたジョン・F・ガウチャーの篤い志、間島記念館の間島弟彦氏、緑岡小学校開祖の米山梅吉氏、万代奨学基金設立の万代順四郎氏、この他学院史に名を刻む先達の功績なくして今の青山学院はありません。そして現在、中等部校舎に続き、150周年記念事業の一つであります大学18号館「マクレイ記念館」と「幼稚園園舎」の完成、この後も「青山学院ミュージアム」開設、「チャールズ・オスカー・ミラー記念礼拝堂」改修工事と陸続と記念事業が進行しています。これはひとえに校友をはじめ青山学院に関わる皆様の温かいご支援の賜物であり、ここまで導いてくださった神様を賛美し、深く感謝いたします。

学院は、2017 年に「青山学院・新経営宣言」を発表し、経営スローガン「Be the Difference」 を土台とする青山学院の経営戦略を示しました。それは、10点満点の愛校心、万代基金1,000億円の達成です。「Be the Difference」(世界は一人ひとりの力で変えられる)とは、新約聖書「ローマの信徒への手紙」に「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています」から導かれたスローガンで、あらゆることの多様性を認め、一人ひとりの個性を大事にする、“違うことに勇気をもつ”思考と行動を促すものです。スクール・モットー「地の塩、世の光」とともに、世界に羽ばたくサーバント・リーダーを育成することが社会の負託に応えることであると思っております。

そのために、未来の青山学院を創造する新たな10年ヴィジョン「AOYAMA VISION 160(長期目標)」と30年先を見据えた「超長期ヴィジョン~ AOYAMA MIRAI VISION ~」を本日11月16日に発表します。「未来を拓く人」を育てる教育機関として、伝統を継承しつつ新たな教育・研究のステージを創造する青山学院の姿をお示しします。

これからの青山学院にご注目ください。

青山学院理事長 堀田 宣彌

1874(明治7)年11月16日、米国のメソジスト監督教会から派遣された女性宣教師が、言葉も通じない異郷の地で、「女子小学校」と呼ばれる生徒7名のささやかな私塾を開きました。『それは非常に暗き場所に灯された誠に小さな光でした』と、ドーラ・E・スクーンメーカーは晩年に語っています。

それから150年、幾多の変遷を経て、神様の御守りと御導きのもと、今では幼稚園から大学院まで約24,000名の学生・生徒・児童・園児を擁し、39万人の卒業生を輩出する総合学園となりました。

創立以来この150年を顧みるとき、それぞれの時代において、偉大な先人たちの献身的な働きを忘れることはできません。青山キャンパスの土地3万坪を私財をもって購われたジョン・F・ガウチャーの篤い志、間島記念館の間島弟彦氏、緑岡小学校開祖の米山梅吉氏、万代奨学基金設立の万代順四郎氏、この他学院史に名を刻む先達の功績なくして今の青山学院はありません。そして現在、中等部校舎に続き、150周年記念事業の一つであります大学18号館「マクレイ記念館」と「幼稚園園舎」の完成、この後も「青山学院ミュージアム」開設、「チャールズ・オスカー・ミラー記念礼拝堂」改修工事と陸続と記念事業が進行しています。これはひとえに校友をはじめ青山学院に関わる皆様の温かいご支援の賜物であり、ここまで導いてくださった神様を賛美し、深く感謝いたします。

学院は、2017 年に「青山学院・新経営宣言」を発表し、経営スローガン「Be the Difference」 を土台とする青山学院の経営戦略を示しました。それは、10点満点の愛校心、万代基金1,000億円の達成です。「Be the Difference」(世界は一人ひとりの力で変えられる)とは、新約聖書「ローマの信徒への手紙」に「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています」から導かれたスローガンで、あらゆることの多様性を認め、一人ひとりの個性を大事にする、“違うことに勇気をもつ”思考と行動を促すものです。スクール・モットー「地の塩、世の光」とともに、世界に羽ばたくサーバント・リーダーを育成することが社会の負託に応えることであると思っております。

そのために、未来の青山学院を創造する新たな10年ヴィジョン「AOYAMA VISION 160(長期目標)」と30年先を見据えた「超長期ヴィジョン~ AOYAMA MIRAI VISION ~」を本日11月16日に発表します。「未来を拓く人」を育てる教育機関として、伝統を継承しつつ新たな教育・研究のステージを創造する青山学院の姿をお示しします。

これからの青山学院にご注目ください。

平和をつくる人 サーバント・リーダーを育て続ける

青山学院院長 山本 与志春

在校生、在校生の保護者、校友、教職員、関係者など多くの皆様のご協力とお祈りに支えられて、青山学院は、2024年11月16日に創立150周年という記念すべき節目を迎えることができました。心から感謝申し上げます。

1874年、アメリカのメソジスト監督教会の婦人海外伝道局によって派遣された23歳のドーラ・E・スクーンメーカー宣教師が、津田仙の協力を得て「女子小学校」を麻布に開設しました。続いて、1878年にジュリアス・ソーパー宣教師が開校した「耕教学舎」、翌年にロバート・S・マクレイ宣教師が開校した「美會神学校」、この3校が合同して青山学院となりました。青山学院の源流である「女子小学校」は、津田仙の子息2人を加えてもわずか7人の、小さな集まりで始まりましたが、現在では幼稚園、初等部、中等部、高等部、大学、大学院、専門職大学院を擁し、約24,000名が学ぶ国内有数の総合学園へと発展しました。

しかしながら、150年にわたる歴史は決して平穏なものではありません。キリスト教信仰に基づいて教育を行うことを建学の精神とする青山学院にとって、1899年に発令された文部省訓令第十二号は存亡の危機となりました。これは宗教教育・活動を禁止するものでした。従来通り宗教教育を継続すれば、高等学校入学や徴兵猶予の特典を失うこととなり、生徒数の激減は明白でした。しかし、第2代院長本多庸一はキリスト教学校の代表として粘り強い交渉を続け、学生の特典を回復してこの危機を乗り越えました。1923年の関東大震災では、校友の勝田銀次郎の寄付で建設されたばかりの勝田館や大講堂、新ガウチャーホールなどのレンガ造りの建物を失いました。また、太平洋戦争時には軍部からキリスト教学校への圧力が高まり、青山学院専門部は明治学院に統合され、青山学院工業専門学校としての存続を余儀なくされました。残された学生も学徒出陣により戦争に駆り出され、多くの命が奪われ、さらに東京大空襲によってほとんどの木造校舎を焼失しました。

こうした度重なる試練に際しても、青山学院の先達は叡智を結集し、国内外からの寄付にも支えられて、これらの危機を乗り越えてきました。そこには、青山学院を心から愛し、そのために全力を尽くす情熱と献身、そして信仰がありました。スクーンメーカー、ソーパー、マクレイの3人の宣教師は命がけで日本に渡り、ガウチャー、勝田銀次郎、万代順四郎は私財を惜しみなく捧げ、それを喜びとしていました。津田仙や本多庸一の働きがなければ、草創期の青山学院は存在しえなかったでしょう。そうして、関東大震災時に被災者や孤児、朝鮮の人々を助けた教職員の愛と奉仕の精神は、今も青山学院卒業生が「地の塩、世の光」として各地で受け継ぎ、光を灯し続けています。青山学院は、これからも神と人を愛し、自分に与えられた力を他の人のために喜んで使い、互いに愛し支え合う平和を作る人、サーバント・リーダーを育て続けてまいります。

青山学院院長 山本 与志春

在校生、在校生の保護者、校友、教職員、関係者など多くの皆様のご協力とお祈りに支えられて、青山学院は、2024年11月16日に創立150周年という記念すべき節目を迎えることができました。心から感謝申し上げます。

1874年、アメリカのメソジスト監督教会の婦人海外伝道局によって派遣された23歳のドーラ・E・スクーンメーカー宣教師が、津田仙の協力を得て「女子小学校」を麻布に開設しました。続いて、1878年にジュリアス・ソーパー宣教師が開校した「耕教学舎」、翌年にロバート・S・マクレイ宣教師が開校した「美會神学校」、この3校が合同して青山学院となりました。青山学院の源流である「女子小学校」は、津田仙の子息2人を加えてもわずか7人の、小さな集まりで始まりましたが、現在では幼稚園、初等部、中等部、高等部、大学、大学院、専門職大学院を擁し、約24,000名が学ぶ国内有数の総合学園へと発展しました。

しかしながら、150年にわたる歴史は決して平穏なものではありません。キリスト教信仰に基づいて教育を行うことを建学の精神とする青山学院にとって、1899年に発令された文部省訓令第十二号は存亡の危機となりました。これは宗教教育・活動を禁止するものでした。従来通り宗教教育を継続すれば、高等学校入学や徴兵猶予の特典を失うこととなり、生徒数の激減は明白でした。しかし、第2代院長本多庸一はキリスト教学校の代表として粘り強い交渉を続け、学生の特典を回復してこの危機を乗り越えました。1923年の関東大震災では、校友の勝田銀次郎の寄付で建設されたばかりの勝田館や大講堂、新ガウチャーホールなどのレンガ造りの建物を失いました。また、太平洋戦争時には軍部からキリスト教学校への圧力が高まり、青山学院専門部は明治学院に統合され、青山学院工業専門学校としての存続を余儀なくされました。残された学生も学徒出陣により戦争に駆り出され、多くの命が奪われ、さらに東京大空襲によってほとんどの木造校舎を焼失しました。

こうした度重なる試練に際しても、青山学院の先達は叡智を結集し、国内外からの寄付にも支えられて、これらの危機を乗り越えてきました。そこには、青山学院を心から愛し、そのために全力を尽くす情熱と献身、そして信仰がありました。スクーンメーカー、ソーパー、マクレイの3人の宣教師は命がけで日本に渡り、ガウチャー、勝田銀次郎、万代順四郎は私財を惜しみなく捧げ、それを喜びとしていました。津田仙や本多庸一の働きがなければ、草創期の青山学院は存在しえなかったでしょう。そうして、関東大震災時に被災者や孤児、朝鮮の人々を助けた教職員の愛と奉仕の精神は、今も青山学院卒業生が「地の塩、世の光」として各地で受け継ぎ、光を灯し続けています。青山学院は、これからも神と人を愛し、自分に与えられた力を他の人のために喜んで使い、互いに愛し支え合う平和を作る人、サーバント・リーダーを育て続けてまいります。