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青山学院歴史紹介映像「地に播かれた三粒の種」

青山学院歴史紹介映像
「地に播かれた三粒の種」

全6章 地に播かれた三粒の種  〈27:06〉

明治初期、メソジスト監督教会の宣教師と日本人協力者の手により開校した女子小学校、耕教学舎、美會神学校の3つの学校は、時代の変遷のなかで多様な変革を遂げながら、現在の青山学院へとつながっています。西欧化への反発、関東大震災、そして第二次世界大戦。様々な時代を越えて受け継がれてきた校風は、青山学院で学び、教えたすべての人々によってつくられ、今なおキャンパスに息づいています。

〈2025年5月20日 改訂版公開)

1章 青山学院の源流 1874~  〈3:28〉

キリスト教信仰が許された明治初期、宣教師ドーラ・E・スクーンメーカーが女子小学校を開校します。開校にあたっては、日本で最初の女子留学生、津田梅子の父である津田仙の助力もありました。この女子小学校が開校した日が青山学院の創立記念日となります。その後、同じく宣教師の手によって開校した耕教学舎、美會神学校と合同し、後の青山学院へとつながっていきます。

2章 青山の地へ 1882~  〈3:16〉

アメリカのメソジスト監督教会の牧師ジョン・F・ガウチャーは、東京に大学をつくるために5000ドルを寄付しました。その資金で青山に3万坪の土地を購入し、2つの男子学校を合わせた東京英和学校が誕生します。女子小学校から発展していた海岸女学校も、増えた生徒の一部を青山に移転し、学校名も東京英和女学校と改めます。この青山の土地が現在の青山キャンパスとなります。

3章 試練と発展 1889~  〈4:47〉

行き過ぎた西欧化に対する反発や国家主義が広まるなか、東京英和学校は青山学院に、東京英和女学校は青山女学院に学校名を変更します。1899年、文部省は学科課程について法令で規定された官公私立学校における宗教教育を禁止し、キリスト教主義による教育を続ける青山学院、青山女学院は高等学校への入学資格を失いました。しかし、残った生徒たちの建学の精神を守る気持ちは強く、伝道活動が活発に行われました。青山学院院長の本多庸一の働きかけで、失われた特典も回復し、青山学院は再び発展していきます。

4章 関東大震災と青山学院 1923~  〈3:37〉

1923年9月1日に起こった関東大震災は東京に甚大な被害をもたらしました。青山学院も校舎のほとんどが倒壊しましたが、教職員や生徒は一体となり救援活動に奔走します。残った校舎は聖路加病院に貸し出し、負傷者の治療や、デマの横行で危険な状況にあった朝鮮の人たちの寄宿舎にしました。翌年には復興工事を開始し、これをきっかけに現在の青山学院のかたちがほぼ完成することになります。

5章 戦争と青山学院 1931~  〈3:18〉

昭和に入り日本が急速に軍国主義に傾斜するなか、阿部義宗院長はキリスト教主義による一貫教育、特に初等教育の大切さを提唱します。それを受け、校友の米山梅吉・春子夫妻は私財を投じて青山学院緑岡小学校・青山学院幼稚園を開設しました。しかし、1941年に、宣教師たちには帰国命令が出され、住み慣れた青山の地を離れていきました。アメリカとの関係が深かった青山学院は厳しい時代を迎えることとなります。

6章 復興・そして今… 1945~  〈7:48〉

戦後の廃墟のなかから青山学院は力強く復興します。男女共学の実現、大学の開校。それは新しい時代の幕開けでした。このとき尽力したのが財務理事の万代順四郎です。莫大な私財を投じて創設した奨学金基金は、現在も多くの学生、生徒のために利用されています。東京オリンピックを境に青山通りは拡張され、街は大きく変貌します。青山学院も、創立150周年を迎えた現在へと続く改革と発展の時代に入っていきます。