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青山学院歴史紹介映像「地に播かれた三粒の種」

1921(大正10)年頃の青山キャンパス

青山学院歴史紹介映像
「地に播かれた三粒の種」

全6章 地に播かれた三粒の種

明治初期、宣教師の手により開校した女子小学校・耕教学舎・美會神学校の3つの学校は、時代の変遷の中で様々な変革を遂げながら、現在の青山学院へとつながっています。西欧化への反発、関東大震災、そして第二次大戦。様々な時代を越えて受け継がれてきた校風は、青山学院で学び、教えたすべての人々によってつくられ、今なおキャンパスに息づいています。

1章 青山学院の源流 1874~

キリスト教信仰が許された明治初期、宣教師ドーラ・E・スクーンメーカーが女子小学校を創立。場所探しにあたっては、日本で最初の女子留学生・津田梅子の父である津田仙の助力もありました。この日が青山学院の創立記念日となります。その後、同じく宣教師の手によって開校した耕教学舎、美會神学校と合わさり、後の青山学院へとつながっていきます。

2章 青山の地へ 1882~

アメリカの牧師ジョン・F・ガウチャーは、東京にメソジスト派の大学をつくるために5000ドルを寄付。その資金で青山に3万坪の土地を購入し、2つの男子学校を合わせた東京英和学校が誕生することに。附属幼稚園を新設した女学校も、増えた生徒の一部を青山に移転。学校名も東京英和女学校と改めます。これが現在の青山キャンパスです。

3章 試練と発展 1889~

行き過ぎた西欧化に対する反発や国粋主義の広がりにより、文部省は私立学校の宗教教育や儀式を禁止に。こうした中、青山学院院長の本多庸一は抗議を繰り返しましたが受け入れられません。キリスト教主義による教育を続ける青山学院、青山女学院は徴兵猶予や上級学校入学資格のない学校となります。しかし、残った生徒たちの建学の精神を守る気持ちは強く、伝道活動も活発に行われることに。

4章 関東大震災と青山学院 1923~

大正12年9月1日、関東大震災は東京に甚大な被害をもたらします。青山学院も校舎のほとんどが崩れますが、教職員・生徒は一体となり救援活動に奔走。残った校舎は聖路加病院に貸しだし負傷者の治療や、デマの横行で危険な状況にあった朝鮮の人たちの寄宿舎にしました。翌年には復興工事を開始。これをきっかけに、現在の青山学院のかたちがほぼ完成することになります。

5章 戦争と青山学院 1931~

昭和に入り日本が急速に軍国主義に傾倒する中、阿部義宗院長はキリスト教主義による一貫教育、特に初等教育の大切さを提唱。それを受け、校友の米山梅吉・はる夫妻は私財を投じて緑岡小学校・幼稚園を開設。しかし、宣教師たちには帰国命令が出され、住み慣れた青山の地を離れることに。アメリカとの関係が深かった青山学院は厳しい時代を迎えることとなります。

6章 復興・そして今… 1945~

戦後の廃墟の中から青山学院は力強く復興します。男女共学の実現、大学の開校。それは新しい時代の幕開けでした。このとき尽力したのが財務理事・万代順四郎です。特に莫大な私財を投じて創設した奨学金基金は、現在も多くの学生・生徒が利用して学んでいます。東京オリンピックを境に青山通りは拡張され街は大きく変貌。現在へと続く、改革と発展が始まりました。