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東日本大震災から10年 青山学院の3.11

ドキュメント 青山学院の3.11

2011年3月11日(金)14時46分、マグニチュード9.0の巨大地震が東日本を襲いました。
あの日から10年。
その日、青山学院は帰宅困難者の方々延べ8,000人を受け入れ、多くのマスコミが取材に訪れ、問い合わせの電話も受けました。また最近、当時の様子について日本経済新聞社の取材を受け、当時安全対策課の係長で、急遽開設した災害対策本部で奔走した田口知博(現・大学相模原事務部担当部長)が取材にこたえ、日経新聞電子版および同紙(3月5日朝刊)に掲載されました。
10年という節目の一つを迎えるにあたり、あの日の青山学院を振り返り、そしてあらためて本学院の帰宅困難者の受け入れについて触れたいと思います。

鉄道のストップと帰宅困難者の発生

地震直後、首都圏のほぼすべての鉄道がストップした。
その日の電車の運行状況は、国土交通省の「大規模地震発生時における首都圏鉄道の運転再開のあり方に関する協議会報告書」(2012年3月)によると下記の通りだった。

〈終日運休〉
・JR東日本全線 18:20「終日運休」の発表
・東武鉄道、京成電鉄、京浜急行電鉄

〈運転再開〉
・20:40 東京メトロ銀座線、都営大江戸線、半蔵門線
・21:15 都営三田線
・21:20 東京メトロ南北線、都営浅草線
・21:45 都営新宿線
・21:55 西武池袋線・新宿線
・22:10 京王線、京王相模原線、京王井の頭線
・22:15 東京メトロ有楽町線
・22:30 東急東横線・目黒線・田園都市線・大井町線・多摩川線・池上線
・22:35 東京メトロ千代田線
・23:00 東京メトロ丸の内線
・23:08 東京メトロ東西線
・23:32 東京メトロ日比谷線
・0:00  小田急小田原線・多摩線、東京メトロ副都心線

※一部区間のみの再開を含む。ホーム混雑のため、運転見合わせ期間あり。

JRでは、終日運休の判断のうえ、駅構内を封鎖し、駅の外に人を出したため、路上に人があふれることになる。JR東日本の社長は4月5日の定例会見で、首都圏の駅の一部でシャッターを閉めたことについて「駅員の案内も不十分で大きな混乱を招いた。お客様におわび申し上げる」と陳謝している(朝日新聞2011年4月5日掲載)。
JRは、翌朝7:00の横浜線を皮切りに、ようやく運転再開となった。

このような背景で、帰宅困難者が発生した。

約8,000人の帰宅困難者を受け入れ

日本建築学会の講演録に「東日本大震災当日の大学における帰宅困難者受け入れ状況の調査」という調査報告がある。
青山学院(青山キャンパス)の約8,000人(宿泊6,500人)をはじめ、立教大学(池袋キャンパス)約3,300人、明治大学(駿河台キャンパス)約1,600人と、多くの一般帰宅困難者を受け入れたことがわかった。しかしほかの大学では2桁の人数にとどまるなど、その数は少なく、積極的に受け入れた学校は少なかったようだ。
また同調査によると、自発的な受け入れを行ったのは青山学院のみであり、ほかは、帰宅困難者からの直接の要請であったり、国や区、周辺住民からの要請で受け入れを開始したと記録されていた。
特に本学は、既に渋谷駅周辺混乱防止対策訓練に参加していたこともあり、想定内の対応ができたとしている。
本学の約8,000人という受け入れ人数は、備蓄品の出庫数で計算しているため、ほぼ正確な数字である。

時系列でみた青山学院の対応

当日の本学の対応を時系列で追ってみると次の通りだ。

・地震発生直後
  近隣の方々が青山キャンパス構内に入ってくる。門では制限をかけず、中に入れる。
  余震も続いていたため、建物には入らずに中庭で待機するようアナウンス。
・15:30
  屋外に臨時の「指揮本部」を設置。
  中庭に人があふれてきたため、指揮本部から総務部長あてに、記念館(体育館)への誘導の可否を問い合わせる。
  総務部長から管理部に、記念館の被害状況と、安全確認を依頼。
・16:30
  記念館の安全確認がとれ、学院執行部の判断で、記念館への受け入れを決定。
  記念館への誘導を開始。
  同時に災害対策本部(本部総務部内に)を設置。急遽集められた職員で受け入れ業務にあたる。
・17:45
  冷えてきたため、防災備蓄品「使い捨てカイロ」の配布を開始。
・18:50
  当初、記念館に一緒に避難していた本学の教員や大学生たちをガウチャー記念礼拝堂へ移動させる。
  JRの終日運休発表で対応の長期化が見込まれ、学生の安全確保のためのゾーニングを図る。
・20:00
  防災備蓄品「水」「クラッカー」「防寒シート」の配布を開始。
・0:00
  記念館に人があふれたため、青山学院講堂も開放・誘導開始。
・7:00
  鉄道の運行再開に伴い、徐々に避難者が帰途につく。
・9:00
  避難者全員が退去。

(総務部安全対策課による受け入れ時の記録資料、および学内ヒアリング結果より)

約8,000人の帰宅困難者の受け入れは大きな仕事であった。
防災備蓄品の記念館等への運搬そして配布(リアカーで記念館に運び、その帰り道、歩道が人であふれていたため車道を通ったのだが危険だったという回想)、ホワイトボードに鉄道の運行状況を書き込んだり、大型モニターを設置しテレビ放送を流したりラジオ放送を流すなどの情報提供、携帯電話用充電器の貸出、体調が悪くなった方や高齢者への対応、本学の収容定員を超えたときのほかの避難所への誘導対応など、多くの職員が関わり、対応した。職員が渋谷駅まで出向き、状況を把握してくるなど、自ら情報収集にあたってもいる。

10年の月日が流れ、受け入れ業務にあたった職員の中には退職している者も多く、また残っている者の記憶も薄れてきている。
あの日から得た教訓などを後世に伝え、受け継いでいくために、当時、最前線で働いた二人に振り返ってもらった。

インタビュー 当時を振り返って(1)石黒隆文

帰宅困難者を受け入れていた記念館の現場指揮官に、本部総合企画部長だった石黒隆文(現・総局長)が、急遽、赴任した。

急遽任務を与えられた現場指揮官 石黒隆文

——地震当時はどこにいましたか。
石黒 外部での会議を終えて13時30分頃に部署(総合企画部)に戻ってきてコーヒーを飲んでいたら揺れが起こりました。本部棟の3階でしたが結構揺れました。部署の全員で外に避難していましたが、30分ほどしてから部署に戻りました。
すると16時頃、総務部長から電話がかかってきて「帰宅困難者のために青山学院記念館(以下、記念館)を開放するので準備のためにちょっと行ってくれるか」という依頼があり、「ちょっと」という言葉で、すぐに帰れるのだろうという気持ちで記念館に行きました。


既に職員が20名以上集まっていました。まだ部活動の練習のあとなのか、バレーボールのネットが張ったままだったりしていたので片づけ、受け入れのための準備を行いました。その状況下で学内にいた学生たちが避難のために入ってき始め、その後、止まることなく増え続け、対応せざるを得なくなり、結局翌朝9時まで記念館にいました。「記念館の受け入れの責任者」という立場を任されたことになりました。

急遽任務を与えられた現場指揮官 石黒隆文

——地震当時はどこにいましたか。
石黒 外部での会議を終えて13時30分頃に部署(総合企画部)に戻ってきてコーヒーを飲んでいたら揺れが起こりました。本部棟の3階でしたが結構揺れました。部署の全員で外に避難していましたが、30分ほどしてから部署に戻りました。
すると16時頃、総務部長から電話がかかってきて「帰宅困難者のために青山学院記念館(以下、記念館)を開放するので準備のためにちょっと行ってくれるか」という依頼があり、「ちょっと」という言葉で、すぐに帰れるのだろうという気持ちで記念館に行きました。


既に職員が20名以上集まっていました。まだ部活動の練習のあとなのか、バレーボールのネットが張ったままだったりしていたので片づけ、受け入れのための準備を行いました。その状況下で学内にいた学生たちが避難のために入ってき始め、その後、止まることなく増え続け、対応せざるを得なくなり、結局翌朝9時まで記念館にいました。「記念館の受け入れの責任者」という立場を任されたことになりました。

——「記念館の受け入れの責任者」となり、どのようなことをされましたか。
石黒 災害対策本部(以下、本部)と無線で連絡しながら、記念館の状況を伝え、必要な措置を伝えました。
するとみるみるうちに避難者が増えてきたため、このままでは収容しきれなくなると判断し、皆と相談しながら、では学生を別の場所に移そうと、ガウチャー記念礼拝堂へ移動してもらいました。
学生の安全確保のためのゾーニングを図ると共に、外部の方の受け入れ場所も確保しました。

【この間、避難者の様子を見ながら、備蓄品の配布、情報の収集と伝達など、避難者に必要なものを提供する一方、体調が悪い方や高齢者、赤ちゃん連れの母子などのために別室を設営するなど、臨機応変に対応している。】

石黒 夜中の12時、記念館に収容しきれなくなってきたため、青山学院講堂も開放することにしました。しかしすぐに満杯になり収容しきれなくなったため、外部の機関を紹介するなど、本部と相談しながら進めていきました。
この時間でも人がどんどん入ってくる様子を見て、脅威を感じたことを覚えています。

職員も働きづめだったので、外と中の巡回・警備を休憩を取りながら交代で行うように指示しました。

朝7時頃に、修学旅行生を迎えるバスが来て、帰っていきました。
多くの人たちが7~8時頃に帰り始めたので、とてもホッとしたことを覚えています。

あの状況の中で、できることは最大限できたのではと思っています。

——特に印象に残ったエピソードがあったら教えてください。
石黒 修学旅行で渋谷・原宿に来ていた学校が3~4校あり、グループごとに生徒たちが避難してきました。電話もなかなかつながらない状況でしたが、それぞれの学校に連絡し、避難状況を伝えました。その修学旅行生のなかに、備蓄品の配布の手伝いを申し出て来て、一緒に配布してくれる生徒たちもいて、しっかりした教育が行われている学校だと感じました。

近隣に一人でお住いの高齢者の方の中には、自宅に被害はないものの、余震が続いて怖くて心配なため避難してきたという方々も多数いました。ビルの一室で運営している日本語学校の生徒や教員も避難してきました。この青山学院の場所が、近隣の方々の期待がかかっている場所なのだと実感し、受け入れを断ることはありませんでした。

――教訓となったこと、後日に活かされたことはありますか。
石黒 この日の経験で、ウィークポイントがわかりました。教員も「協力したいけれど方法がわからない」ということで、その後の総合防災訓練では、教員に学生の避難誘導を割り当てた内容も取り入れています。当時も、備蓄品の配布の手伝いをしてくれた教員もいました。

また、職員の中には、自分の経験則で勝手に自分流のことをしてしまう者もいて、それでは組織として秩序だって動けなくなるため、指示通りに動くよう、指揮命令系統を確立しました。それは、職員たちにとって初めての業務だったため、仕方がなかったことではあります。その経験は、新しい総合防災訓練に活かされ、マニュアルも整備されました。訓練参加者の意識も大きく変わったと感じています。部署ごとに分担を定め、どのように動けばいいのか自分で考える。訓練の重要さをあらためて実感しました。

そして、「一時滞在施設」の役割として、“やるべきこと”と“やらないこと”を明確にしておく必要性を感じました。
またこのような事態が発生したときには、周りの学校も準備が整っていると思います。

困っている人たちを受け入れることが当たり前

——どのような思いで業務にあたりましたか。
石黒 大岡昇平氏の自叙伝『少年』を読んだことがあるのですが、関東大震災の際、ご自身が青山学院中学部の生徒で、渋谷から青山学院に広がる惨状の光景が克明に記されていて、その場面が、3.11の日の光景とオーバーラップしました。ですので、避難者を「外で待たせてはいけない」という気持ちでした。

また関東大震災の時「朝鮮人が井戸に毒を入れた」というデマが発生し、日本人が朝鮮人を殺害するという狂気が発生したとき、青山学院は朝鮮人をかくまった、という事実もあります。その精神は脈々と受け継がれているように感じます。「損得無しに、自然と、その状況に応じて困っている人たちを受け入れることが当たり前」ということが大事なのだと思います。それが青山学院全体としてそういう気持ちになれることだと思います。今後もその気持ちは無くさないでほしいと思います。

困っている人たちを受け入れることが当たり前

——どのような思いで業務にあたりましたか。
石黒 大岡昇平氏の自叙伝『少年』を読んだことがあるのですが、関東大震災の際、ご自身が青山学院中学部の生徒で、渋谷から青山学院に広がる惨状の光景が克明に記されていて、その場面が、3.11の日の光景とオーバーラップしました。ですので、避難者を「外で待たせてはいけない」という気持ちでした。

また関東大震災の時「朝鮮人が井戸に毒を入れた」というデマが発生し、日本人が朝鮮人を殺害するという狂気が発生したとき、青山学院は朝鮮人をかくまった、という事実もあります。その精神は脈々と受け継がれているように感じます。「損得無しに、自然と、その状況に応じて困っている人たちを受け入れることが当たり前」ということが大事なのだと思います。それが青山学院全体としてそういう気持ちになれることだと思います。今後もその気持ちは無くさないでほしいと思います。

ただ、我々にも人がいないと受け入れはできない。あの日は人がいたから、それは我々も帰ることができなかったから、同じ帰宅困難者だったから受け入れができた、という状況もありました。受け入れることができて良かったなあと、今となっては思います。

渋谷の地にあって、青山学院は地理的に良い場所にあるため、外部の方が青山学院に期待するものがあり、それには応えなくてはならないだろうと思います。

背伸びをすることなく、できる範囲で、最大限のできることを実行する。これが大切なのだと思っています。

災害はいつ襲ってくるかわかりません。そのためにも日ごろの訓練の意義は大きいのです。
10年が経過し、学院内にも3.11の経験者が少なくなりました。あの日のことは後進にも伝えていかなくてはなりません。

眠たいものの、一晩中眠ることもできず、寒い中、巡回するしかなかったという。支給されたおにぎりを食べる食欲も湧かず、クラッカーを少しかじっただけだったという。重い責任を背負って全うしている姿は、ともに受け入れ業務にあたっていた職員たちを勇気づけた。
朝10時に解散し、家に帰ってご飯を食べたとき、普通に食事ができ、風呂に入ることができ、ベッドで眠ることができる幸せとありがたさを噛みしめたという。
帰宅困難者の受け入れ業務に専念していたため、被災地の様子に触れる機会が少なく、被災地の惨状をテレビを通して知り、フィクションの映像かと目を疑ったという。
「被災者の方の苦難、悲しみに比べたら、帰宅困難者の受け入れ業務など、いかに小さなことかと感じた」と語った。

まさにあの日の「サーバント・リーダー」だった。

インタビュー 当時を振り返って(2)川尻竜太郎

安全対策課の課員であった川尻竜太郎(現・大学相模原事務部)が、地震直後から最前線の現場の表舞台で指揮にあたった。

最前線に立つ 川尻竜太郎

——地震直後、建物から中庭に避難してきた学生や教職員に安全のためのアナウンスをしていた姿を多くの人が覚えています。どのような役割を担ったのでしょうか。

川尻 携帯電話からの緊急地震速報を受け、地震発生の前にロータリーに出て、周囲にいた学生などに声を掛けました。その後、学内での課外活動中の学生への避難誘導指示を出すなどをしたり、、大学にとどまらず青山キャンパス内の安全確認に走りました。損壊がが出た箇所には立ち入り制限を施したり、また、正門から多くの外部の人たちが入ってくることから、青山通りの様子を確認し、キャンパス内 への誘導を行いました。


やがて中庭に避難してきた人があふれてきたため、記念館への収容が可能かどうか、災害対策本部と連絡を取りながら模索し、集まってきた20人ほどの職員の方と手分けし、トイレの使用状況の確認や椅子の準備を行いました。幸い前年度に耐震工事が完了していたこともあり、記念館自体の被害もなかったため記念館への誘導が決定。、中庭の人々を記念館に誘導し、その後、正門は関係者以外立ち入り制限をかけ、記念館門を開放し、周辺住民や帰宅困難な方の受け入れを開始しました。

最前線に立つ 川尻竜太郎

——地震直後、建物から中庭に避難してきた学生や教職員に安全のためのアナウンスをしていた姿を多くの人が覚えています。どのような役割を担ったのでしょうか。

川尻 携帯電話からの緊急地震速報を受け、地震発生の前にロータリーに出て、周囲にいた学生などに声を掛けました。その後、学内での課外活動中の学生への避難誘導指示を出すなどをしたり、、大学にとどまらず青山キャンパス内の安全確認に走りました。損壊がが出た箇所には立ち入り制限を施したり、また、正門から多くの外部の人たちが入ってくることから、青山通りの様子を確認し、キャンパス内 への誘導を行いました。


やがて中庭に避難してきた人があふれてきたため、記念館への収容が可能かどうか、災害対策本部と連絡を取りながら模索し、集まってきた20人ほどの職員の方と手分けし、トイレの使用状況の確認や椅子の準備を行いました。幸い前年度に耐震工事が完了していたこともあり、記念館自体の被害もなかったため記念館への誘導が決定。、中庭の人々を記念館に誘導し、その後、正門は関係者以外立ち入り制限をかけ、記念館門を開放し、周辺住民や帰宅困難な方の受け入れを開始しました。

記念館では、情報発信に力を入れ、ホワイトボードに電車の運行状況などをどんどん書き込んでいきました。これには、本学3年生の2名が協力してくれました。その後記念館内のテレビからの放送音声をマイクで流しました。

——現場で感じたことはありますか。
川尻 地域の方から、青山学院という存在が安心の材料になっていること、また、社会的にも信頼されていることを感じました。

こんな出来事がありました。
記念館での対応中、見慣れない制服の高校生が入ってきたので話かけてみると、沖縄の高校生で、修学旅行で渋谷・原宿をまわっていたところ地震に遭い、青山学院に来たとのことでした。「他のお友達はどうしている?」と聞いてみると、「みんなバラバラでどこにいるかわからない」という答えだったので、青山学院に集まるよう伝えました。その後、本学から高校への連絡をし、引率教員にも本学に来てもらうことで、、引率の先生方の負担が軽くなりますし、沖縄にいる高校の先生、生徒たちのご両親たちの不安も和らぐのでは、と思いました。その甲斐もあり、その後、続々と高校生たちが集まり、無事に点呼を終え、翌朝6時頃には高校側が用意した大型バスで高校生全員が宿舎へと移動していきました。

また、体調不良の方もいるため、避難者の中から医療従事者の協力を求めたところ、10名ほどの方々が挙手してくださり、応対していただきました。遠くは旭川の看護師さんもいらっしゃいました。後日、青山学院から感謝状をお贈りいたしました。

——忘れられない出来事はありますか。
川尻 構内を歩いていたとき、左斜め前方を軽やかに歩いていた古谷一弘課長(現・人事部長)が、「愛と奉仕の精神だね」と僕にかけてくれた言葉が、対応にあたって他職員との意見の対立などで重い気持ちだった僕の背中を後押ししてくれて、その後は、後ろを振り向かずに、自分が何をすべきか原点に立ち戻り、前へ進んでいくことができました。

また、伊藤定良大学学長(当時)が記念館で避難者の前で挨拶されたときのことです。伊藤学長が「青山学院大学学長の伊藤です」と言うと、大きな拍手が沸き起こったことを覚えています。避難されてきた方々の期待と感謝の気持ちが伝わってきた瞬間でした。「青山学院大学は皆さんのために最大限の用意をいたします。皆さんもぜひ我慢していただき、お互いの協力のもと、ここで過ごしてください」と挨拶されました。

最も忘れられないことは、翌朝の9時には記念館を閉鎖して、避難者全員の方に退去していただいたのですが、最後に残っていた方が福島県から来た方でした。ご家族と連絡がとれず、どうしたらよいのか途方に暮れていらっしゃった姿を思い出します。その後どうされたのか……、忘れられません。

日々、災害への意識を持つことの大切さ

——教訓となったことはありますか。
川尻 教壇に立つ教員は、学生にとっては皆先生であるものの、実際には非常勤の方や特別招聘教授の先生もいて、学校に詳しくない方もいらっしゃいます。しかし学生の安全を守るためにはすべての先生に同じ行動をとってもらう必要があります。その平準化のため、各教室に災害時のマニュアルを配備しました。これは後々、株式会社コトブキさんと共同で商品開発をし、実用新案登録をしています。

あの日は、石黒部長の着任で指揮命令系統の確立はできたものの、役割分担ができていませんでした。これを教訓に地震発生時対応マニュアルを改定し、各事務部署の災害時における役割を定め、これまで行っていた防災訓練(消火訓練、応急手当等)は個人で防災館に赴くことを義務化し、キャンパスごとに総合防災訓練を行い、分担ごとの組織だった訓練を行うようにしました。

あの日から10年が経ち、災害対応も進化しています。最新の情報を認知し、備蓄品の見直しなども図るなど、できることから取り組む。一日一日の行い、災害への意識を持つことが大切です。

日々、災害への意識を持つことの大切さ

——教訓となったことはありますか。
川尻 教壇に立つ教員は、学生にとっては皆先生であるものの、実際には非常勤の方や特別招聘教授の先生もいて、学校に詳しくない方もいらっしゃいます。しかし学生の安全を守るためにはすべての先生に同じ行動をとってもらう必要があります。その平準化のため、各教室に災害時のマニュアルを配備しました。これは後々、株式会社コトブキさんと共同で商品開発をし、実用新案登録をしています。

あの日は、石黒部長の着任で指揮命令系統の確立はできたものの、役割分担ができていませんでした。これを教訓に地震発生時対応マニュアルを改定し、各事務部署の災害時における役割を定め、これまで行っていた防災訓練(消火訓練、応急手当等)は個人で防災館に赴くことを義務化し、キャンパスごとに総合防災訓練を行い、分担ごとの組織だった訓練を行うようにしました。

あの日から10年が経ち、災害対応も進化しています。最新の情報を認知し、備蓄品の見直しなども図るなど、できることから取り組む。一日一日の行い、災害への意識を持つことが大切です。

苦労は多かったようだ。
当初集まった職員には役職者も多く、持論を展開する者もいて、指揮命令系統の確立に困ったそうだ。その後、石黒部長の着任により運営状況が安定したため、自身は、石黒部長を補佐しつつ、記念館を巡回し、特に困っている様子の方、妊婦や高齢者、赤ちゃん連れのお母さんなどに声をかけ、別室を確保してそちらへ案内したり、館内での避難者同士のトラブルを未然に防ぐためにも声かけを続け、またトイレットペーパーの状況を確認したりと、常に現場の様子を把握し、行き届いた配慮を施した。

また、避難者の中には“客”という認識の人もおり、忍耐強く対応にあたった。

そして、阪神・淡路大震災のときの他大学での対応事例にも目を通すなどの研究を行っており、3.11の際にもここでは紹介できないものの、有効に活用した。
最後に、初等部から「全児童が帰宅した」という電話連絡を受け、ようやく長い一日が終わった。

あの日彼は、本学のスクール・モットー「地の塩、世の光」の人だった。

様々なエピソード

当時、帰宅困難者受け入れ業務に携わった職員に、当時のエピソードを聞いた。

・Twitterで「青山学院が帰宅困難者を受け入れている」という情報が流れ、人が押し寄せてきた。SNSの情報力の恐ろしさと大切さを実感した
・JR渋谷駅の駅員が、青山学院が避難場所になっている旨のアナウンスをしていた
・卒業生が青山学院を目指して避難してきた
・近隣の飲料メーカーから飲料の運び入れがあった
・近隣の食品会社からの商品の提供があった
・妊婦さんにや小さなお子さん連れの方、配慮が必要な方には、アイビーホールの部屋を提供
・学食では、関連会社(IVYCS)社員や本学の職員が、在校生と教職員用におにぎりを握った
・青山学院記念館と青山学院講堂の収容定員がオーバーしてしまった後は、入構を制限し、近くのほかの避難場所を案内した
・公衆電話に長い列ができた
・携帯電話用充電器の貸出にも長い行列ができた
・避難者が各自思い思いに記念館のコンセントを使って携帯電話の充電をするため、そのコードが足に引っかかり危なかった
・長時間座った状況だったため、立ち上がった瞬間に転倒し、怪我をする人もいたことから、エコノミー症候群対策も必要であると感じた
・暗い中を帰宅しようとする人(特に女性)へはできるだけとどまるように案内したが、どうしても帰宅するという人には、一人ではなく、まとまった人数で帰宅するように伝えた
・渋谷駅周辺帰宅困難者対策訓練を実施していたことで、先々に何が起こるのか、何が必要なのかが予想され、非常時でも冷静に対応することができ、日頃からの訓練の大切さを実感した
・後日、帰宅困難者の方からお礼の手紙をいただいた
・多くの職員が他者のために自発的に行動している姿を見て、職員のあるべき姿を実感した

受け入れ業務にあたった職員も帰宅困難者であり、家族がある。
家族と連絡ができないまま、受け入れ業務にあたっていた。

あの日の全員に、その人しか知りえないそれぞれの3.11が存在する。

教訓 今日、活かされていること

在校生は日ごろに比べわずかではあったが滞在者がおり、当初、すべての人を記念館に誘導していたが、在校生は別の場所に移動してもらい、ゾーニングを図り、在校生の安全を確保した。
各学校においては、個別に滞在する在校生の保護者宛にメールにて安否情報を伝えたほか、各学校のウェブサイトでも、滞在者情報を更新していった。

初等部では、ちょうど下校中だった児童を教員が自転車で近隣を回って保護に向かい、児童の安全を確保した。
ほかにも各学校において、それぞれのエピソードがあり、当時の青山学院の公式機関誌「青山学報」に綴られている。

あらためて、在校生、教職員の安全確保が一番にあることを明確に意識させた。

そして、一時滞在施設の役割については、インタビューで証言を得られた通りである。
当日の指揮系統は確立されていたものの、役割分担が定まっておらず、自発的に行動できる職員が対応にあたっているという現実があった。
この教訓を得て、あらためて各部署における役割分担を定め、教職員個人個人が災害時に自ら動くことができるよう、毎年さらなる訓練を重ねている。

3.11は大学の授業期間ではなく、また入試業務も一段落した時期でもあり、もし通常授業の期間であったら、他の大学もそうであるように、大学生だけで約15,000人が通う青山キャンパスでは、帰宅困難者の受け入れは難しかったかもしれない。

また、電気・ガス・水道といったライフラインが生きていたことも幸いした。これらが供給されない状況下では、非常に困難となることが予想される。

早期に災害に備える組織を設置

2007年 安全対策課を設置

2007年4月、青山学院では組織変更が行われ、本部総務部内に「総合安全対策課」が設置された。これは、予想される大災害への備えとしての防災対策にとどまらず、在校生の安全対策など、本学院で学ぶ者、働く者が安心して自分の業に打ち込むことができる環境作りを目指して設置された。

2009年 渋谷駅周辺帰宅困難者対策協議会への参画

2009年5月14日に、東京都、渋谷区、ならびに渋谷駅周辺の事業者・学校等によって構成された「渋谷駅周辺帰宅困難者対策協議会」が設置され、渋谷区の要請により本学も第1回の会合から参加している。
その協議会で本学に求められたものは、
・一時収容所としてのキャンパスの提供
・訓練参加(教職員、学生)
・ボランティア協力(語学通訳等)
であった。

2009年11月18日に行われた「渋谷駅周辺混乱防止対策訓練」に本学から500名以上が参加した。

3.11以降、安全対策課の働きについて、同様の部署設置にあたり、他大学から何件かの見学やヒアリングを受けている。

「共助の場」としての一時滞在施設の役割

青山学院ウェブサイトに記載している通り、青山キャンパスは、渋谷区の「帰宅困難者支援(受入)施設(一時滞在施設)」に指定されており、地震や台風、水害等の災害による公共交通機関の運行停止に伴い帰宅困難者(学外者)が発生した場合、学内施設の一部を使用した受け入れを検討し、受け入れの決定後は、学院内の園児・児童・生徒・学生、及び教職員等の学内関係者の安全確保と施設の安全確認が行われた上で実施する。備蓄品の配布等も行う予定だが、学内関係者への対応が最優先となること、「サービス提供の場」ではなく「共助の場」となることをご理解いただければと思う。
そして石黒総局長が語ったように、できることとできないことを明確にし、あの日のようにできることを最大限行っていく姿勢に変わりはない。

人と社会に仕え、導きとなる人「サーバント・リーダー」

最後に、石黒総局長が語った言葉を紹介します。

「新燃岳の被災地支援から帰ってきたばかりのボランティアグループの本学の学生が、ちょうどその日、報告のために学内にいて、この学生たちも、自主的に受け入れ作業に加わってくれました。

今振り返ると、青山学院の創立時からの愛と奉仕の精神、他者のために尽くす献身のサーバントの思い、それらの思いを共有して、現在、青山学院が掲げるAOYAMA VISIONが育成を目指している「サーバント・リーダー」というものが、意識的ではなく、意図的でもなく、無意識のうちに可視化されていたのがあの日だったと思います。
職員だけでなく、学生も、教員も、そこに避難された他校の生徒や近隣の人とも協力して……、その皆の姿はまさに、一人一人がサーバント・リーダーだったのだと思います。

あのような出来事は、二度と起こらないことが一番ですが、もし、また同じようなことが起きたときに、また同じように皆で協力できるように、日ごろから、訓練は言うに及ばす、学院の使命を皆で心に刻んでおきたいものです。」

2021年3月11日